河島英五の前世をオーラ診断 最期の歌

河島英五のオーラ診断

娘の花嫁姿が見たい。その思いが実現するも、意識不明の重体が襲い掛かってきた。そして、医師の口から「永眠」と告げられる。それと同時に病室に飛び込んできたのが次女でした。すると、ここで。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1952年4月23日
出身地 大阪府東大阪市
本 名 河島英五(かわしまえいご)
身 長 184センチ
学 歴 大阪府立花園高校卒
死 没 2001年4月16日(48歳没)

1969年、高校在学中にフォークソングに魅了されギターを持つ、1973年、高校卒業後はバスケット部の仲間ら4人でフォークソンググループ「ホモサピエンス」を結成。京都レコードからシングル「クレージーバンド」でデビューする。

1973年、グループ解散後、河島英五はソロ活動を開始。代表曲は「酒と泪と男と女」酒造メーカー黄桜酒造がCMソングとして採用し全国的ヒットを飛ばす。

江原啓之との出会い
関西の某番組内で河島英五を霊視する企画がもちあがる。この事を聞いた河島が、番組の前日に江原が宿泊しているホテルへ挨拶に伺う。この事を2001年4月、河島が肝臓疾患で他界後に江原に尋ねるも覚えていないとの回答が返ってきた。

江原曰く、「亡くなってからよく存じ上げています。可愛らしくて、お茶目で甘えん坊、更に、寂しがりやな方です。なので、側に家族がいなければ駄目な方なのですが、歌声は男っぽく素敵な人です」

病との闘い
河島のコンサートは山岳部やへき地などでも行い、冬場の時期に野外ライブが続いていた時でした。急に体調を崩してしまいます。河島は、時期が時期だけに風邪でダウンしていたと思っていました。そして、風邪薬を飲みながらライブを続行するも吐血し入院。

しかし、河島はこのような状態にも係わらず予定されているライブを続行したく、長女のあみると医者を説得し退院します。

この時の事をあみるはこう言う。
「父は喋っている時は弱々しいのですが、歌を歌うと何故か元気がでてくるのです。なので、退院しライブを行うことに賛成をしました」

この事に対し江原はこう言います。
「河島さんの歌声には神々しさがあり天国からの声のように聞こえてきます。まるで肉体を超えた魂の歌声のようです」

最期の歌
2001年4月14日、ライブを行うも、その翌日に、河島が体調を崩し吐血する。病院へ連れていこうとするも入院を拒み自宅の寝室にて休養。その二日後の16日、長女・あみるの結婚式に参列後、病気が悪化し意識不明のまま救急搬送されてしまいます。

医者の診断の結果。手遅れで今後意識は戻ることなく永眠と言われるのですが。次女・アナムが病室に到着し声を掛けると河島の意識が何故か戻ります。

そして、河島がアナムに歌をリクエストします。それは、歌を聴いていると体が楽になるからでした。その歌の途中でした。河島は静かに目を閉じていきます。享年48歳。

もうひとつの愛
一連の内容を聞いた美輪がこう言います。
「素晴らしい人は罪つくりです。何故なら、その人がいなくなったら、プラスの分だけマイナスが深くなるからです」

さらに江原がこうつづけます。

「河島さんは幸せです。最期を家族全員で看取ってくれました。中には最期を見せたくない人もいます。時に間に合わなかった場合もありますが、その人の考え方や気質が現れる場合もあります。」

「追いすがられても辛い場合は、少し離れた隙に亡くなることもあります。ここに、もう一つの愛があるのです」

次女アナムの不思議な夢
ここでアナムが不思議な夢のことをこう話し出します。

「父が亡くなってから、よく夢に現れます。それはこうです。母親が父が大事にしていた靴を捨てる夢でした。この時、父から『靴を捨てるのを止めにいってくれ!』そこで実際、ゴミ袋の中を覗くと靴がたくさん入っていました。」

「こんな感じでいつも父が会話してきます。それと江原さんに初めてお会いする前日も父がこう言ってきました。」

『江原さんに聞かないで、俺に聞けよ。じゃあ今から挨拶に行ってくるからな』

「そして、去年の冬はこうです。

『俺、生まれ変わろうと思うから、もう夢にはあんまり出ないぞ』

その翌月の事です。長男の翔馬の奥さんが妊娠しました。春には次女の私も妊娠です。そして、長女のあみるも妊娠したのです。」

「父は誰になろうとしているのか、それともまったく違う人になろうとしているのか」

この事について江原がこう言います。
「英五さんは根っからの寂しがりやですので、夢に出てくる理由は、”まさか俺のことを忘れようとしているのではないだろうな”という気持ちの表れになります」

さらにこうつづけます。

親離れ子離れ
「今回、オーラの泉に出演した理由は”ファンの方に自分は元気にしているよ”というのを知らせたいからです。それと英五さんが夢で言っていた『俺、生まれ変わろうと思うから』これは方便になります。」

「親離れ子離れしなければならない、という思いからきています。そうしなければ、家庭がうまくいかなくなるから子供には過干渉になってはいけません。」

さらに江原がこう続けます。
「ライブができるお店に英五さんがいるのが見えます」

ライブカフェ
これに、あみるがこう答えます。
「母が奈良県でライブができるカフェを経営しています。そこで、兄弟でライブをやっています。」

「ライブをしていると、コーラスとして父が参加しているような感じがいつもしていました。これは家族がやっているのだから、全体的にそう聞こえてくるのかな、と思っていました」

この事を聞いた江原がこう続けます。

「家族の絆が音楽だからです。英五さんが未練があるとすれば、妻のことだけです。妻がこの世を去るまでは自分の責任、自分で選んだ相手だからその責任を感じています。」

「もちろん、子供たちのことも大事です。この事をちゃんと理解してほしい。それに、私の事を『お爺ちゃん』と呼んでほしくない。」

「お爺ちゃん、お婆ちゃんと呼ばれて確かに世間体もあり、それはそれでいいでしょう。でも、腹の中は激高の思いになっています」

ここで、あみるがこう言います。
「子供たちは亡くなった父の事を『英五じぃ』と呼んでいます」

美輪がここでこう言います。
「その呼び方は、絶対に止めること」

死後
告別式終了後の出棺の時だった。棺の上に遺影が置かれると、どこからともなく「英五」の名の連呼が起こり始める。墓は奈良市の十輪院に建てられ、忌日の4月16日は「桜風忌」と呼ばれている。

ヒット曲「野風増」の歌詞の中に「息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたい」との内容があるも、歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。合掌

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