古賀稔彦の前世と現在をオーラ診断 ほんの一瞬の隙

古賀稔彦のオーラ診断

オリンピックの決勝で私は間違いなく勝てる。このような思いがありました。その時、一瞬です。目の前に現れ、そして、一瞬にして消え去ってしまった。それは神が仕掛けた技でした。

どうぞ、ごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1967年11月21日
出生地 佐賀県三養基郡北茂安町
本 名 古賀稔彦(こがよしひこ)
身 長 169センチ
血液型 A型
学 歴 日本体育大学卒
所 属 環太平洋大学

スピリチュアルチェック
○ 小さい頃なりたかった職業は何ですか?
「職業ではありませんが、強い人間になりたかったです」

○ 性格を一言で言うと何ですか?
「臆病で小心者ですが、芯が強いです」

○ 苦手なものを教えてください。
「幽霊、妖怪などが嫌いですが、その反面、図鑑や本を持っています」

○ 人生での挫折を教えてください。
「初めて出たソウルオリンピックで3回戦敗退した事です」

人生での挫折
この事について古賀がこう話し出します。

「私は1988年、周りから優勝候補の期待を背負いソウルオリンピックに出場しました。私も金メダルを必ず日本に持ち帰ってくる気持ちで、この大会に臨みました。自分自身の意気込みと裏腹に3回戦で敗退です。」

「この時はとっても悔しく涙がこぼれ落ちました。そして、日本に帰国します。周りの人からの避難とマスコミの批評。これには、自分自身が本当に可愛そうになりました。」

「そして、自分の戦いぶりを録画で確認すると、試合会場にいた両親が応援席で自分の敗退を謝罪していた姿がありました。この行為を見た瞬間です。自分への恥ずかしさが込み上げてきたのです。」

「これで何かが吹っ切れ、勝負に対しての不安というものが消え去りました。そして、自分の側には常に、仲間と両親がいて支えてくれている。と思えるようになり、次のバルセロナオリンピックでは必ず恩返しをしようと誓いました」

内助の功
この事に江原がこう話し出します。

「今の古賀さんがあるのは両親のお陰です。特に母親は家庭内のコントロールが上手でいつも父と子の間を取り持つ内助の功的な存在でした。母親の役割を本当に十分に理解している方です。最近はこのような母親が少なくなりました。寂しい限りです」

オリンピックの思い出
この事について古賀がこう話し出します。

負傷
「国内大会を制し、念願のバルセロナオリンピックの代表となりました。その直前の乱取りを78キロ級の吉田秀彦とおこなった際のことです。左ひざのじん帯を負傷してしまいます。この事により練習はできず、減量も思うようにできませんでした。」

「でも、私はこう思っていました。『絶対に優勝できる!』そう思い大会に望みました。私の心中はこうです。『怪我をしたからこそ、自分を信じられる』そして、痛み止めを打ちながらの戦いがはじまっていきます。」

金メダル
「とにかく一戦、一戦に集中していき3回戦、4回戦は判定勝ちをおさめ。準決勝を前に再び痛み止めの注射を打ち挑みました。その結果。得意の背負い投げで一本勝ちです。決勝の相手は、前年の世界選手権準決勝で勝っているハンガリーのハトシュでした。」

「勝てる自信はありました。判定に持ち込まれ赤旗が3本あがった時は、私の勝ちに涙があふれ出るのをこらえていました。金メダルを掛けた瞬間はとっても嬉しかった」

後に古賀はこう言います。
「もし、怪我をしていなかったらメダルを取れなかったかもしれません」

アトランタオリンピック
この大会の事について古賀がこう話し出します。

「私はこの選考会では一本負けを喫してしまいます。しかし、過去の実績が認められ出場を果たしました。順調に決勝まで進み、相手の選手はフランスのジャメル・ブーラでしたが、畳に上がった瞬間に感じたのですが、相手が自分を怖がっているのが分かりました。」

「自分のペースで試合を運べば楽々、金メダルは取れると思った瞬間でした。目の前に金メダルが現れたと思いましたら、パッと消え去ったのです。その後でした。形勢が逆転。勝ちを逃してしまったのです。」

「ここで自分の甘さを感じてしまいました。選考会での一本負けの時は初心を忘れていたのを気付かされていたのに。大事な決勝ではそれを忘れていたのです。」

シドニーオリンピック
この大会の事について古賀がこう話し出します。

「この大会でこの屈辱を誓い出場を目指しました。この4年間は今までの中でとっても充実していたのでしたが、選考会で勝つ事ができませんでした。でも、柔道で頑張れた事がとっても嬉しく爽やかな気持ちが先行していたのです。」

「そして、現役を引退」

ここで美輪がこのような事を言います。
「人生には何も無駄な事はありません」

指導者
つづけて古賀がこの事についてこう話し出します。

「私は2000年、現役を引退したのと同時に、負けた選手の気持ちも分かるようになっていました。死ぬまで柔道着を着ていたいと思っていましたので、指導者の道を選ぶことにしました。そして、全日本女子柔道チームのコーチを務めることにしたのです。」

「そのかたわら2003年、神奈川県川崎市に柔道の町道場『古賀塾』を開塾しました。そして、2004年、アテネオリンピックにおいて、古賀の愛弟子の谷本歩実が金メダルを獲得します」

思い
愛弟子を通じての金メダルは、古賀自身が取った金メダル以上に喜びを感じたといいます。

古賀はこの柔道の指導者を通じこう言います。
「今起きているような事件や事故が自然と無くなって欲しいです」

これに美輪がこのような事を言います。
「まずは親を教育しないといけない時代です。まずは大人たちが襟を正すべきなのです。このような立派な大人を見ると、子供たちは真似をします」

前世
モンゴルの一族の家長でモンゴル相撲をしていました。これより前は、ヨーロッパの天文学者です。この影響もあり情緒的なものや神秘的なものが好きなのです。この裏返しで苦手なものが幽霊や妖怪なのです。

幽霊が怖い
この事に古賀がこう話し出します。
「私はかなり幽霊等が怖いです。身内が亡くなった際に私は仏様にこうお願いをしました。
『お願いです。自分の生前中には決して出てこないでください』

こうしてお願いしたほど本当に怖いようです。

この事に美輪がこう言います。
「成仏しているから大丈夫よ」

つづいて江原もこう言います。
「何も心配事が無ければ、夢には出てくる必要も無く、それに、霊は出たがりではありませんから大丈夫ですよ」

三人の霊
ここで古賀がこんな話をしだします。

「以前、知ってるスナックに行くと話題が霊の話となって、そこにいたお客さんが『霊を見る事ができる』と言いだしたのです。私のことを見てもらうと『三人の霊が憑いています。しかし、自分らの事は言うな。そう言っています』これ以上見る事ができないと言われました」

これに江原がこう言います。
「現役の選手時代の時は、本人を過信させてしまうために、あえて言わない場合もあります」

守護霊
守護霊の中心にいるのは、達磨大師のような姿の僧侶です。
そして、補助霊は父親と祖父です。

さらに江原が、行き付けのスナックで言われた三人の霊の事をこう言いだします

「全く何も関係がありません。霊能者ぶるマニアも多いのも事実です。彼らにとんでもない事を言われてしまい、信じて自己暗示にかかってしまう方もいます。最後には精神的におかしくなる方もいますので、間に受けてはいけません。」

「それに、この霊の世界は聞かれもしないことを決して言うことはありません」

子供から教わる
先ほど古賀が身内の霊も怖く生前中には、と言う話をしました。

これに江原がこんな事を言いだします。
「古賀さん。あなたは眠りに着くと、いつも爆睡状態です。これでは霊も出たくても出れません。でも、今のあなたの考え方と行動には、特に伝える事は何もありません。但し、事業の誘いは十分に注意することです」

このことに古賀がこう言います。

「柔道の塾では、月謝だけで生活していく事はできません。なので、整骨院を経営しようと進めています。それに柔道塾と子供を通じて学ぶことがたくさんあります。子供に教えること、それは、自分も教わることです」

現在
2008年、青森県弘前市、弘前大学大学院でスポーツ医学研究を始めます。そして、2012年3月、博士(医学)の学位を取得します。

現在は古賀塾で子供らに指導しながら、明日の人格者を育てようと日々活動しています。将来、古賀塾からオリンピックのメダリストが誕生するのも近い。そんな思いを感じます。

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