京谷和幸の現在と人生ドラマ 君に捧げるエンブレム 婚約者の想い

京谷和幸のオーラ診断

突然、目の前に飛び出してきた車。気が付けば白いベッドの上に横たわっていました。目前に迫った結婚式。しかし、回復の可能性は1%。これに婚約者はこう言います。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1971年8月13日
出身地 北海道室蘭市
本 名 京谷和幸(きょうやかずゆき)
身 長 172センチ
血液型 O型
学 歴 北海道室蘭大谷高校卒

高校~社会人へ
室蘭大谷高校時代、3年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場。2年生の頃にはユース代表となり3年生の時はバルセロナオリンピックの代表選手候補に選ばれる。

高校卒業後、東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド市原)とプロ契約を結ぶという。将来を期待された選手だったのです。

交通事故
1993年11月30日、京谷はいつものとおり自家用車で自宅を出ます。信号の無い交差点に差し掛かろうとした時でした。道路脇から突然車が。これをとっさに避けようとハンドルを切った瞬間でした。そのまま電信柱に激突してしまいます。この衝撃で車は大破。

京谷が気が付くと白いベッドの上に寝ていました。病院に運ばれていたのです。ハンドルをきったところまでは覚えていました。両手を動かしてみましたが両足には感覚がありません。

「あ~ あの事故の時に挟まれてしまった。」

1パーセント
そして、こう呟きます。
「2か月後に迫った陽子との結婚式は延期だな。」

その婚約者の陽子の元へ和幸の入院の知らせが届きます。駆けつけると確かに和幸はベッドの上に横たわっていました。そして、担当医からこう言われます。

「大丈夫です。命は助かりました。脊髄を損傷し下半身不随の状態ですので99パーセントは車椅子の生活になります。」

この事を聞いた陽子はこう思います。
「まだ可能性は1パーセント残っている。だったら、この事を本人には伝えないでおこう」

永遠の愛
この時でした。
和幸の両親から陽子はこのような事を言われます。

「陽子さん。息子がこのような事故に遭い。貴女が苦労する事が分かっています。婚約を解消してもよろしいですよ」

この両親の優しさ。ものすごく胸に突き刺さり嬉しく理解はできました。
そして、両親にこう伝えます。

「私はこのような状態になっても和幸さんへの想いは変わりません。結婚いたします。」

翌日、陽子は病院へ婚姻届けを持っていき1993年12月、二人は入籍します。

一人じゃない
1994年元旦。新しい年を迎えました。和幸はベッドの上で足をさすりますが感覚がありません。ぴくりとも足は動きません。
そして、担当医からこう告げられます。

「あなたは二度とサッカーをすることができません。」

この事を聞いた瞬間でした。愕然とし涙が止まりませんでした。でもこの時、私は一瞬こう思います。

「俺は一人じゃない。一人じゃないんだ」

ここで妻の陽子が”入籍しましょう”と言ってくれた意味がようやく理解できたのです。1994年5月、退院。同年10月、挙式をおこないます。

積もる不満
この挙式を終えてからでした。私は特に何することもなく、ただただ二人で代わり映えのしない同じ毎日を過ごしいていました。もうマンネリ化状態です。

これじゃいけない。そう思い自分なりに仕事を探していたのですが、中々見つかりません。

このような生活がつづいていましたので、当然、資金は減っていく一方です。時には言い合いになることもしばしばありました。もう私は、半分生き甲斐を失いかけていました。

車椅子バスケット
そんな時です。浦安市役所から身体障害者手帳の交付の知らせが届きます。私が妻と障がい福祉課を訪ねた時でした。

車椅子バスケットボールの元日本代表ヘッドコーチの小滝修さんと出会います。この方が車椅子バスケットボールの魅力について語りだします。この話を聞いているうちに私の中で何かが動き出しているのが分かりました。

そして、小滝コーチがこう言います。

「僕たちと一緒にバスケやろうよ」

このチームは全国でも強豪の千葉ホークスでした。ここのチーム練習に加わった時です。想像していたものとは全然違い。コートの中でのぶつかり合いも激しくハードな競技には驚かされました。

「本当に自分はやれるのだろうか。」
との思いがありましたが、入団することにしました。

チームメイトと一緒に練習している時間はとっても楽しく、自分の中で何かが変わっていくのが分かりました。そんな仲間の紹介で仕事も決まります。

ここから、自身の充実な毎日がはじまっていきます。

オリンピック出場
その後、子供にも恵まれ。この子のためにも自慢できる父親になると誓い車椅子バスケットに打ち込んでいきます。

そして、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、4大会連続でパラリンピック出場を手にいたします。北京では日本選手団の主将も務めました。

引退
2012年ロンドンパラリンピックを最後に現役を引退。その後、サッカーへの情熱もあり指導者としてピッチに立つ夢を追い掛けている。

また、2020年東京パラリンピックに向け車椅子バスケットボールの選手育成にも力を注いでいる。今でも京谷は「妻に認められたい。子供たちに自分のこの背中を見続けてあげたい。」と思いつづけている。

江原啓之の言葉
何かを失うと何かを得ることができます。人生とはそういうもの、この世に生きている人は、皆、何かしらの十字架を背負っています。体とは限らず表面に見えない部分のこともあります。

美輪明宏の言葉
羨ましい人はこの世の中にはおりません。そんな方は今まで見た事もありません。人はみんな大なり小なり痛み、苦しみ、悩み、悲しみを抱えています。人を羨む時には、その人の持っている苦労も欲しがるようにしてください。

ヒューマンラブストーリー
ドラマ「君に捧げるエンブレム」主演:櫻井翔。

櫻井は以前からパラリンピックや障碍者スポーツを取材しているのには訳があった。それは多くの友人の中の一人に車椅子生活を送っている2歳年下の男性がいたからだ。

櫻井は「このドラマを通じ多くの視聴者に障碍者スポーツにスポットライトを当てることができたら光栄です」と語っている。

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次は『テレニン晃子の人間ドラマ「人間愛」』(母胎内の我が子を助ける)

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