海老名香葉子の若い頃と現在をオーラ診断 不思議な体験 夢

海老名香葉子のオーラ診断

東京が真っ赤に燃え上がっている。残された家族は今どうしているの。いてもたってもいられませんでした。でも私には何もできません。そして私がしたこと。これが後々不思議な体験へと結びついていくのです。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1933年10月6日
出生地 東京都墨田区立川
本 名 海老名香葉子(えびな かよこ)旧姓 中根
事務所(株)ねぎし事務所代表取締役

生い立ちと戦時中
ここで海老名が生い立ちについてこう語りだします。
「1945年8月15日終戦。この時、海老名は本所深川(現、東京都目黒区)に住み、11歳の小学校5年生でした。家業は江戸時代からつづく日本一の釣竿を作っていました。」

「家族構成は両親と祖母、兄3人と弟の8人家族。中学生以上は学徒動員されるため、私は1944年の大空襲の時に静岡県沼津市へ疎開することになります」

母親との別れ
「この疎開先に行くときでした。
母が私の手をぎゅっと握りしめ『強い子だから大丈夫よ』と泣きながら言ったのです。」

「私の胸中は、これまで東京から出た事がなく、果たして地方で友達ができるかだろうか。との不安がありました。」

「この時です。母親の口から『あなたは明るくて元気だから』と出てきたのです。なんとなくですが。この言葉が心の支えになりました。」

「当時4歳だった弟からは大切にしていたメンコをもらい、そして、父親と共に疎開先の沼津市へ向かったのです」

さらにこうつづきます。

疎開先が空襲
「東京の父親からは3日に1度、疎開先の家に手紙が届きました。そこにはこう書かれてありました。『寂しくなった時は、東京の方向を向き”父ちゃん”と3回呼んでごらん』」

「私は一度も呼ぶ事はなく、只々、家族の安否を祈願しておりました。終戦間近の1945年上旬、沼津市に低空飛行でエンジンを切った無音状態の飛行機が襲来してきました。」

「低空飛行ですのでパイロットの顔がしっかりと確認できましたが、その顔は、まるで面白がっているとしか言いようがありませんでした。爆撃はおよそ8回は数えました」

東京大空襲
「沼津市に避難命令が出ましたので、防空頭巾を被り山へと駆け上がりました。皆が指差す方角を見ると、家族が住む東京方面が真っ赤に燃えあがっているではありませんか。まるで、真夜中というキャンバスが燃えてしまうかのようで、思わず正座し合掌をしていました。」

「1945年3月9日から10日にかけて、300機以上のB29が東京下町に焼夷弾1600トン以上を投下したのです。2時間あまりで10万人以上の人間が亡くなってしまいました。私の家族で生き残ったのは三男の兄、喜三郎(13)ただ一人だけです」

原子力爆弾
1945年8月6日、広島に原爆が投下され9日には長崎に投下されます。

この時の事を美輪がこう語りだします。
「当時、私は10歳で長崎市におりました。透き通った青空がとっても美しく、何の音もなく静かな日でした。家で宿題の絵を描いている11時頃です。」

「突然の閃光の後、もの凄いほどの轟音が響き渡ったのです。爆風で窓ガラスは砕け散り、この瞬間。破片が体のあちこちに突き刺さりました。私は兄、お手伝いさんと裸足のまま逃げるのですが、不思議と怪我はありませんでした」

1945年8月15日 終戦
「外に出ましたら、そこはもう地獄絵図です。体中の皮がむけ、発狂し叫びながら飛び跳ねている人。近寄って来る人に触ると皮がむけ堕ちてしまう。もの凄いほどの惨状でした。そして、6日後の15日、玉音放送により日本の降伏が国民に公表されたのです」

二度と戦争を起こしてはなりません。
ここから海老名が悲惨な惨状を語っていきます。

生きる戦い
「終戦から2か月後の事です。海老名は中野区の叔父の家に引き取られたのですが、叔父の仕事が無くなり、面倒をみれなくなてしまったのです。」

「ここから、私の生きて行くための戦いが始まっていきます。戦争孤児として、親戚、知人の家々を点々とする毎日がつづいていきます。食べるものは、焼け跡に生えた雑草とふすま粉の雑炊だけでした」

戦後の人情
「1945年12月、実家のある本所深川に行って見ると、辺り一面、焼け野原で何もありません。過去の記憶から実家にたどり着き、瓦礫の中から家族の思いでの数々が見付かるたびに、涙があふれ出てきました。」

「ここにいつまでも居たい。と膝を抱え座っていると、見知らぬ男性が近づいてきて『しっかりしなきゃダメだよ』と言いながら、サツマイモを半分分けてくれたのです。これを食べたら体が温まってきて、まるで神様かと思ったほどです」

この事に美輪がこう言います。
「この頃はまだ人情が残っていました」

さらにこうつづきます。

柳家金馬との出会い
「私・海老名香葉子の事を知った父の友人が、家の焼け跡の前に立て札を立て、そこに連絡先を書いてくれました。その中に柳家金馬さんの名前があり、その隣にこう書いてありました『金馬来る、連絡乞う』」

「そして、金馬さんを訪ねていきましたら『生きていたんだ。良かったね』と、訪ねたその日に私を引き取ってくれたのです。その日の夜の布団はとっても温かったです。この時は、心から助かったと思いました。その後、路上で腰ひもを販売していた兄とも再会しました」

林家三平との結婚
1952年、金馬の紹介で林家正蔵の実子、初代三平と結婚し、長女 みどり、次女 泰葉、長男 泰孝(7代目・正蔵)、次男 泰助(二代目・三平)の4人の子供を儲け、林家一門のおかみさんとなります。

平和の母子像
2005年(平成17年)3月9日、海老名香葉子が終戦60年の節目に東京大空襲の犠牲者の遺体が集められた上野に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と平和の母子像「時忘れじの塔」を建立する。

この慰霊碑は大勢の人が集う場所にどうしても建てたい。そんな思いから香葉子、個人が行動し建てた慰霊碑です。

不思議な体験1
この事について海老名がこう語りだします。

「どうしても、ここ上野に戦没者の慰霊碑を建てたい。そんな思いで活動をしていても、中々前に進まず悩んでいる時の事でした。」

「夢の中で、どこからともなく冷たい風がさーっと吹いてきたのです。ふっと、後ろを振り向くと、白い着物姿で坊主頭の男性が後ろに立っていて、私の肩を叩いたのです。」

「自分の頭の中では、頑張って慰霊碑を建ててくれ。と言っているような気がしたので『頑張って建てるから大丈夫』と言ったところ。肩を叩いてくるではありませんか。」

「そして、その手を引っ張ったら、その人が前に倒れ髭の感触を感じました。気持ち悪くなって起き上がりましたら、髭の感触が肌に残っていたのです」

不思議な体験2
「母子像の彫刻をする先生が、突然、手が腫れて作業が出来なくってしまいました。これは大変と思い、私自身が心から”腫れが治りますように”と念じたところ、不思議と腫れが引けていったのです。」

「さらに、彫刻するために使う彫刻刀が胸に突き刺さったのですが、偶然胸に入れていたラジオに刺さり助かりました。」

「ここからです。奇跡や信じられない事が起こりはじめたのが」

今までの霊視を聞く海老名
この事を聞いた江原が霊視をおこないはじめました。
「焼け野原でサツマイモをくれたのは、亡くなったお父さんです。夜中に寝ているときの夢に、出てきた坊主頭の男性は4歳で亡くなった弟さんが成長した姿になります」

思い出の蓄音機
さらに江原がこう話し出します。
「蓄音機での楽しい思い出はおありになるんですか?」
と海老名に尋ねます。

すると、海老名はこう返します。
「家には蓄音機がありました。楽しい思い出、宝物でしたね」

これを聞いた江原がこう言います。
「父と弟さんは、そのことを忘れていません。あの頃はみんなひょうきんで楽しかった。物は消えても、思い出はいつまでも残っています」

補助する2人
この事について江原がこう言います。
「海老名さんの側にいつも一緒にいるのは三平さんの母親の歌さんです。信仰深い人で、海老名さんは三平さんと結婚する前から、いつも姑には可愛がってもらっていました。」

「慰霊碑の事は世のために良い事をしている思いがあって、二人羽織のようにすべて手伝ってくれていました。その側にいるのは旦那の三平さんですよ」

家族らは成仏している
ここで江原がこのような事を言います。
「ちゃんと浄化していますよ。亡くなった海老名さんの家族もすべて完全に浄化しています」

されに美輪がこうつづけます。
「今まで身を律することで生きていましたが、もう解放されています。これからは 好きなファッションなどを楽しんだらいい。やりたかった青春を今から始めること。これはご褒美です。」

「また、家族を大切にしてください。亡くなっても家族です。この家族の広がりが世界だと感じ取れれば今後、戦争は起きません」

現在
いくつかの自治体の観光大使をつとめ、最近では、たいとう観光大使、穴水町名誉町民、石川県観光大使を務め、それぞれの土地のPRを行っている。

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