細川たかしの前世と現在をオーラ診断 人生の転機 出会い

細川たかしのオーラ診断

出会いってほんと不思議です。それも怪我があればこその出会いでした。まさしく怪我の功名と言えるのではないでしょうか。出会いがあり。そして何気ない一言。これに私は思わず。

プロフィール
生年月日 1950年6月15日
出生地 北海道後志管内真狩村
本 名 細川 貴志
身 長 173センチ
血液型 A型
事務所 細川たかし音楽事務所

スピリチュアルチェック
○ 生まれ変わるなら何になりたいですか?
「歌手ですね」

○ この世からなくなると困るものは何ですか?
「家族、テレビです」

○ 一番悲しかったこと何ですか?
「母を亡くしたことです」

○ 最近、どんなことで腹が立ちましたか?
「腹は立たない、ケンカをしたこともない」

○ 人生の転機は何ですか?
「欽どこに出演し演歌界を明るくした事です」

家族
この事について細川がこう話し出します。
「私が地元の北海道で奥様と出会い結婚しました。子供が産まれたのが昭和49年です。翌年の4月1日に「心のこり」で歌手デビューを果たしたのが24歳の時のことです。」

「その前は、北海道で16歳の時から札幌のすすきのを中心にクラブ歌手として活動をしていた。私のこの活動を東京の芸能プロダクションが聞きつけスカウトされました。」

「この時、妻は私にこう言ったのです。」
『人生は一度だから勝負したほうがいい』

「そして、単身で東京に送りだしてくれました。この時、私はこう思いました。」
『1年間で売れなかったら北海道に帰ってくる。』

「本当にこの覚悟で行きました」

人生の転機
この事について細川はこう言いだします。
「萩本欽一さんの番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』に出演し本人と出会ったこと。このことが私にとって最大の人生の転機でした」

「それはこうです。昭和56年の春『8時だヨ!全員集合』の生放送中のことでした。コントの最中に運悪く私のアキレス腱が切れてしまったのです。ここから3か月間休養を取らなければならなくなります。当然ですがこの間、まったく仕事ができません」

欽ちゃんとの出会い
「病気の回復後の同年秋のことです。私の元に「欽どこ」の出演依頼が届きました。そして、出演する事に。これがまた予想以上にウケにウケたのです。この番組の出演が3か月ぶりでしたので、他に出演する番組はありません。」

「この事を萩本欽一さんに伝えると。こい言ってくれました。」
『だったら来週もおいでよ』
あまり嬉しくて、嬉しくて涙がこぼれていました。

さらにこうつづきます。

「北酒場」が大ヒット
この事について細川がこう話し出します。
「『欽どこ』に出演しているうちに、萩本さんがこんな事を言い出してきました。」
『歌い手だからさー、歌を出そうよ』

「ということになり『北酒場』を出すことになったのです。」

「そしてすぐに『欽どこ』で初披露する事になりましたが、この時はまだ歌詞をしっかり覚えていませんでした。そこでカンペを用意してもらったのですが、本番で歌い出したら照明が暗くなりカンペが見えません。」

「そして客席に向かい『歌詞おぼえていません』と謝罪。これがまたウケにウケ、大ウケでした。」

その後「北酒場」は大ヒットを飾り、第24回日本レコード大賞を受賞する。

魂の目的
ここで細川の今までの事を江原がこう言います。
「魂の目的が明確です。怪我をした事、歌詞を忘れた事。これは災いではありません。”禍転じて福となす”怪我の功名です。あの世は演出家なのです」

母からのメッセージ
そして江原が母のメッセージをこう伝えます。
「車に注意しなさい。車のことが昔から心配でした。歌い手だから首をとにかく痛めてはいけません」

これは細川がデビューする前に事故を起こし、首がむちうちになってしまった事があるからです。この事が強烈に残っているためでした。
母は苦労をするも、子供を授かり育てた事に感謝している。何をしてあげられないが、心配だけはしてあげられます。

母の愛
この事に美輪がこう付け加えます。
「これは”愛”そのものです。愛する人間は、やってあげることだけが幸せ。そして、無償の愛、与えることが喜びなのです」

細川の兄弟は7人で姉が亡くなった次の日に細川が産まれた。母に喜びと悲しみが一緒にきたのです。今、母は亡くなった子供らと一緒にいて幸せにしているようです。細川が歌が売れたとたん、親孝行できたなと思った。と話します。

オーラの色
シルバー(こだわりが強く、古風)と赤(頑固で情熱的)朗らかであり怒りは無いです。
しかし、頑固で信念が強いです。心配してくれる方との縁が多く、どこに行っても支援者に恵まれ、どこに行っても良い人ばかりですぐに身内の気分になってしまいます。

前世
この事に江原がこう話し出します。
「細川たかしさんは前世と余り時間が離れていない珍しいタイプの方になります。歌う為に前世のリベンジで生まれてきた人です。前世は東北の民謡歌手で雪の中、津軽三味線を持ち、歌い歩いていたが目が不自由な方でした。」

さらにこうつづけます。

「東北の民謡は北海道の民謡よりもこぶしが効いていて、若いときから、こぶしは知らないうちから出来ていました。そして、人に会うときは必ず人に触れ、会った瞬間、本能的に握手をしてしまいます。これは、前世での触れて確認する習慣、そのものになります」

産まれた時から歌が好き
「前世では歌で身を起こす事が出来ませんでした。でも、もっと自分は歌える。こんな思いが常にあって、生まれ変わったら絶対に歌手。この思いが強烈にありました。」

「このためか、細川は産まれた時から歌が好きで、幼少期から近所の方々を集めては歌を披露していました。デビュー曲がヒットしたのは運だけではありません」

守護霊
前世と同じ東北の民謡歌手です。これは、前世が守護霊になるのは、グループソウル(類魂、魂の家族)があるためです。グループソウルは守護霊になるため、前世と守護霊が一致することも多くあります。どんな人にもグループソウルがあります。そのため、守護霊がいない人はおりません。

補助霊は父方の祖父
祖父は尺八が好きでいつも吹いていて、孫の細川の歌声に合わせて尺八を吹きたいという思いを持っているようです。

目をつぶり歌う
最近なぜか、細川は目をつぶって歌っていると言われています。これはまさしく前世そのもの。

この事について細川がこう言います。
「目をつぶると、想像を絶するくらいの声が出るんです。ところが、目を開けて歌うと気が入らず思うように声がでません」

まさしく前世の影響がここに出ています。

発想の転換
ここで美輪がこんな事を言います。
「細川さんは空想と現実が交錯しています。今、発想の転換を図っているところです。今後は後進指導を考えること。守護霊たちも同じ思いを持っていますよ」

現在
2016年、第67回紅白歌合戦に出場すれば40回出場の節目になるはずでした。しかし、11月21日、細川が「世代交代が必要」として後身に道を譲るべく出場を辞退します。
2017年5月31日、シングル「縁結び祝い唄」を発売。
2018年11月、最愛なる妻が他界。
2018年10月24日、シングル「新・応援歌、いきます」を発表。

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