小室哲哉のオーラ診断
立て続けにヒットを飛ばしてからです。私が私で無くなりました。プライベートの時間というものがまったくありません。そんなロンドンでの滞在のことでした。私の体が一瞬にして、ここまでくるとは。
どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。
プロフィール
生年月日 1958年11月27日
出身地 東京都府中市
本 名 小室哲哉(こむろてつや)
身 長 167センチ
体 重 57キロ
血液型 O型
学 歴 早稲田大学中退
スピリチュアルチェック
〇 小さい頃なりたかった職業は何ですか?
「ミュージシャンです」
〇 好きな言葉を教えてください。
「恋しさと、せつなさと、心強さと、です」
〇 苦手なものを教えてください。
「魚介類です」
〇 人生で一番辛かったことは何ですか?
「家族が出来てから色々な噂で嫌な思いをさせたことです」
〇 無くなると困るものは何ですか?
「奥さんです」
不思議な体験 瞬間移動
この事について小室がこう話し出します。
「私がロンドンのホテルで横になっていた時のことです。ふっと気が付いた瞬間でした。ここのホテルの階段を凄い勢いで下りていったのです。そして出たところは、なんと、大阪の高速道路の上でした。これには、ほんと驚きました。このままではまずい。そう思い。」
「そこから、また、階段を勢いよく駆け上っていきました。そして、扉を開けるとロンドンのこのホテルの部屋に帰ることが出来ました。無事に到着です。」
この体験の事についてこう言います。
「このような現象は今回だけではありません。それはkeikoと出会ってからはじまりました。お互いが知らない霊のような人が時々いる事を感じる時があります」
この事を聞いた江原がこう言います。
「keikoさんに関わりがある先祖の霊かもしれません。もし、この霊の存在に気が付いたら、声を掛けてみてあげてください。名前もどういう人だったかも教えてくれるはずです。それに小室さんの霊を追求していけば、私と一緒です」
音楽の出会い
小室が音楽との触れ合いについてこう話し出します。
「私の父親は音楽がそんなに好きじゃありませんでしたが、母親は音楽がとっても大好きな方でした。私がちょうど3歳の時のことです。母親が東京芸術大学教授の下でバイオリンを習わせさせてくれました。」
「ここから2年後の5歳の時には、母親がエレクトーンを購入してくれました。ここが鍵盤楽器との出会いです。そして12歳の時のことです。大阪万博博覧会でシンセサイザーを弾く冨田勲さんを間近に触れます。この時の衝撃は今でも忘れることはできません。」
さらにこうつづけます。
シンセサイザー
「もう居ても立っても居られず。家にあったバイオリン、エレクトーン、ギターを無断で売りさばき16万円以上したローランドSH1000のシンセサイザーを購入しました。手にした瞬間は本当に嬉しかったですね。」
「練習する際は、音楽に大反対していた父親に隠れてしなければなりませんので、常にヘッドフォンをかけながら部屋で練習をしていました。このような状態が毎日つづいていましたので、当然ですが側には音楽の先生はおりません。すべて独学での学びです。」
「なので、コード譜は読めましたが譜面は読めません。これはプロになってからもまったく変わりません」
ここで美輪がこのようなこと言います。
「音楽理論で作った人の曲は売れません。それは感性が邪魔されないためです。それが良かった」
大活躍の裏側
1986年、渡辺美里に提供した曲「My Revolution」が大ヒットし作曲家として注目されます。翌年には、TM NETWORKの「GET WILD」がヒット。ここで一躍人気グループになり、さらには、トップアイドル達に楽曲を提供したり、自身がプロデュースした多くのアーティストを育てあげていきます。
その後、CD売上枚数1億7000万枚を突破。さらには、レコード大賞4年連続受賞するなど、音楽史上に残る記録を打ち立てます。
この時の事を小室がこのように話し出します。
「年間に作曲する曲は90曲にも昇ります。ほんとにとってもハードな日々でした。そのせいなのか、これらの受賞はまったく実感がありませんでした。」
「プライベートな時間はまったくなく。この間、2度の離婚を経験しました。だからか、守るものが無くてどうでもいいやという、投げやりな感じもありました。」
「膨大な収入も私自身では把握できずにいました。いったい、どこにどう流れていったのか。まるで裸の王様ですよね。昔のビデオを見ても、笑うどころか表情はいつも暗い。そんな自分ばかりです」
オーラの色
ここで江原が驚きながらこ言います。
「以前と違い、別人のようです。穏やかな綺麗な紫のオーラになっています。内観(人生を見つめる時間)を持てています。」
「当時はどす黒い赤のオーラでした。自分のことを考える時間が全く無く、常に音楽を作ることだけを考え、時間に追われ、眠る事さえできませんでした。現実なのか夢なのか全く分からない状態をさまよっていました」
音楽への愛情
ここで小室がこう話し出します。
「色々な賞を受賞して、この事は嬉しかったのですが、この事が目的で頑張ったのではありません。それはただの流れです。毎日が曲を作るだけの時間で無くなっていきました。でも、音楽に対する愛情は持ち続けていました」
この事に対し江原がこう言います。
「作曲している時が自分と対話している時間だったのです。歌詞はほとんど自分のことを書いていました。独り言の究極の形で音楽と接していたのです。そして、自分のエネルギーが曲として一緒に出ていっていました。」
新たな出会い
つづけて美輪がこう話し出します。
「小室さんはずっと笑いの無い人生を過ごしていました。よくここまで頑張ってこれましたね。何度も駄目になった事もあるでしょう。」
「孤独が怖くて大勢の中に一人でいたいのに、誰かが小室さんの存在を伝達させようとする。この事がとってもうるさかった。とにかく一人でいたい。この気持ちが常にありました」
この事に小室がこう言います。
「コミュニケーションを望んでいない訳ではありませんでした。時間が足りない毎日がつづき、家族や友人の代わりはいつも鍵盤と歌詞でした。」
「Keikoと出会うまで人との会話ができていませんでした。Keikoから見ると、自分は完全に子供のような状態でした。ここで人間を信じることが出来た初めての人になります」
孤独へのご褒美
この事に江原がこのような事を話し出します。
「Keikoさんとの結婚は家族を含めての結婚でしたので、すべてを得たという感覚でした。ここで新しい家に生まれ変わった気分になり、今までの人生がまるで変わりました。」
「今まで孤独でいた小室さんへのご褒美になります。そして、ここで初めて親や親戚の成り立ちなどを学んだのです」
するとこの事に小室はこのようなことを言います。
「お祭りやお盆、花見などの行事もとっても新鮮に感じました」
前世
ヨーロッパのクラッシック歌手の女性になります。
熱心なうえ勤勉でしたが、ボイストレーニングで高い声の出し過ぎで声帯を壊し歌手生命を断念します。小室さんが女性に対して提供する曲が多いのは、張りつめた美しい高音で女性に歌わせたい。このような思いがあるからです。
それに、シンガー泣かせの難しい曲がとても多くありました。
マリア・カラス
ここで美輪がこのような話をし出します。
「小室さんは、まるでマリア・カラスの人生のようです。この方は20世紀最高と言われたアメリカのソプラノ歌手です。少女時代から母親に愛されずに育ちます。」
「歌で表現することに生きる事を選び、歌手で成功することだけ目標を置きます。それは母親に認めてもらうためです。この間、大富豪との恋愛や別れを経験。その後は、生涯家族に恵まれずに他界します」
つづけて江原がこう言います。
「小室さんは音楽を発信するための役目があります。それは、音楽を作って表現し現代を象徴する役割になります」
最期の言葉「ありがとう」
2002年11月22日、小室はkeikoと結婚。2007年11月keikoの父親が他界。この父親が他界の時のことです。病院のベッドで横たわる父親に最期に言葉を掛けたのは小室でした。
いつもは一歩下がっていましたが、この時はベッドの側にいたのです。
そこでこう言います。
「みんな、お父さんに”ありがとう”と言おう!」
そして江原が父親からメッセージをこう伝えます。
「本当に息子に良くしてもらった。潔く散る事ができた。これで良かった。苦労がたくさんあったが自分のためになった」
ここで小室がこう言います。
「父からの一番のプレゼントは、無理やり食べさせられたことです。とにかく食べろ食べろ、とうるさいくらい毎日言われていました。これまで米もろくに食べていませんでしたから。この事が形見になります」
無償の愛
さらに江原はこう言います。
「これが本当の無償の愛です。今まで逃げていたのは無償の愛ではありませんでした。いつも代償を求められていましたので逃げていました。今度だけは逃げたくない。そんな思いがあったのです。」
「孤独な魂の末に無償の愛に辿り着きました。アーティストとして極めることは自動的でしたが、家族や愛情を得るには時間が掛かりました。この無償の愛を得るために生まれてきたのです」
祖父からのメッセージ
ここで江原は小室のお爺さんのメッセージをこう伝えます。
「今は絶対にあせるな。本当の自分で生きるのにも時期がある。この時期がくると自然と道は開けてくる。泰然自若として時期を待つこと。その時が来れば、何も無理せずに事が進んでいき新たな時代がやってくる。」
「但し、海外への移住は絶対しないこと。日本での役目を大切にすること」
ここの事について小室はこう話し出します。
「お爺さんには、あまり接した事はありませんが、記憶が少しあるくらいです。確かに海外への移住も考えていました。インターネットの普及で音楽ビジネスのスピードが速くなっていますので、急がないといけないとも考えていましたので」
原点
そして美輪がこのような話をしだします。
「小室さんは原点を見つめ直す必要があります。その原点は冨田勲さんです。きちんとした土台があれば、何も怖いものはありません。」
「原点を分解して咀嚼して細胞にして、そこから始まります。そうすると揺るぎの無い本格的なものができあがります」
すると、どこからともなく不思議な音楽が美輪と江原の心の中に聴こえてきます。
その音はクラシックやモダンを超越した現代音楽。ロックとクラシックを融合した壮大な交響曲。これこそ世界に発信する日本の音なのかもしれません。
引退
2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑が某週刊誌に掲載される。同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した。
この会見の席上で小室は女性との不倫関係を否定し、keikoの介護をする中での自身の精神的な疲労を述べた。さらにはC型肝炎と左耳の突発性難聴により、身体的な能力が低下した事で、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かしたのだ。
新たな証言
しかし、同年7月5日、某週刊誌によると事実は百八十度異なっていた。keikoの親族によると、keikoは超元気。驚異の回復力を見せ、歌も口ずさむし、日常生活を送れるほどに回復しているという。
一方の小室はというと、会見後、妻は実家の大分に預けっぱなしで転居する。さらに新居でお泊まりするA子さんの姿もキャッチされている。また、小室が献身的に介護していたというのも嘘で、家では付き人やスタッフが介護をまかされていて、小室はほとんど何もしていなかったという証言まで飛び出してきた。
記者会見で語った介護問題が不倫の方便だったとしたら。近々、この問題がどう明らかになっていくのだろうか。
離婚調停
そして、2019年10月20日、離婚調停中であることが明らかになった。これは美輪が言う。「原点を見つめなおす。」この行為だと思ってのことなのか。近々、この真実が明かされるだろう。離婚を申しだしたのは、もちろん小室側だった。
次は「西川きよしのオーラ診断」
ここで、あなたにお教えしたいことがあります。
カツカレー発祥の洋食屋をご存じですか?
それはこちらになります。
グリルスイス本店 銀座オーラ散歩
あの巨人軍の名選手の一言から生まれたとはあまり知られておりません。