加藤和也のオーラ診断
いくつかの不思議を体験を経験しています。その中でもっとも不思議だなと思ったのがこの雨です。それも突然。決して偶然とは思えない。そのような雨でした。
どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。
プロフィール
生年月日 1971年8月10日
出生地 東京都
本 名 加藤和也(かとうかずや)
学 歴 明大付属中野高校中退
事務所 藤和エンタープライズ代表取締役
スピリチュアルチェック
〇 小さい頃、どんな子供でしたか?
「少し暗くて、本当のことは話さない子供」
〇 よく見る夢を教えてください。
「小さい頃の事ですが、家族が一人ずつ消えていく夢と悪いピエロがいたずらをする夢を毎日のように見ていました」
〇 不思議な体験を教えてください。
「九死に一生を得た経験が何回もあります」
〇 奇跡を感じた事を教えてください。
「お袋が東京ドームで復活コンサートができた事です」
〇 一つだけ願いが叶うとしたら何ですか?
「お袋に生き返って欲しいです」
不思議な体験「九死に一生」
加藤が不思議な体験を語る前にこのような事を話し出します。
「ある年齢を境に不思議なことが起こるようになりました。ここからスピリチュアルな世界のことを信じるようになったのです。」
「母が亡くなってからの事になります。ドライブが趣味でしたので、毎晩ドライブに出掛けていました。山道を運転している時のことです。カーブで正面衝突をしてしまい、その衝撃で車は何回転も転がりながら崖を滑り落ちていきました。」
「この衝突したその時です。視界が一瞬明るくなったのを覚えています。その後、自分がどこにいるのかも分かりませんでした。不思議な事にこのような大事故を起こしたのにも関わらず友達も自分も怪我ひとつがありませんでした」
試練
この事について江原がこう話し出します。
「この事故が助かる事を見越した上で、わざと体験させることもあります。それは、これ以上危険な運転をしないようにというメッセージです。一度、怖い事を経験させると身に覚えるからです。これは一つの試練になるからです」
さらにつづけて美輪がこう話します。
「救ってもらったのではありませんよ。わざと怖い思いを体験させ安全に導きさせたのです。事故を起こした瞬間。ツィてないと言うのではなく、一瞬、間を置き、何事も無いことにツィているなのです。わざと転ばせる事もあります。これも愛情の一つ、感謝すること。決して、命を粗末にしてはいけません」
毎日が孤独の親子
加藤がここで母親(美空ひばり)の事をこう話し出します。
「私の母親は毎日がかなり多忙で一緒に過ごす事ができたのは1年のうち数日ぐらいだけです。このような状況でしたので、母親が帰ってくる日が分かると、その日がやってくるまでとっても嬉しく、興奮して眠る事さえできませんでした。」
「幼い頃からこのような状態で過ごしていましたので、母親というものは、このようなものだと思っていたのです。」
「学区が違う学校に入学していましたので、近所には友達もなく、近所で知らぬ子と遊んでいると祖母(ひばりの母)が近寄り、知らない子とは遊んではいけませんと言われていましたので、毎日がいつも孤独でした」
ここで美輪がこう言います。
「お母さんも孤独でしたよ。この時代は物騒なことが多く、これが口癖だったのです。子供の遊び相手は親が選んだ時代でもあったのです」
養子縁組
加藤は毎日のように母親に逢う事ができませんので、いつも母親が掲載されている雑誌を見て楽しんでいました。この時はまだ学校へも入学していませんでしたので、文字を読むことはできませんでしたが、その画像を見ただけでこの内容を理解していました。」
「そして、小学校の低学年の時です母親と祖母からこう告げられたのです。」
『和也の本当の親は別にいます。あなたはどうしたいですか?』
「このように尋ねられるも、何をどうしていいのか分からずこう答えました。」
『僕はこの家の子供です。お母さん産んだんじゃなければ、お父さんが産んだ事にすればいい』
そして和也は7歳の時、実弟の加藤哲也から美空ひばりに養子縁組をします。
つづく別れ
1981年7月29日、祖母の喜美枝が転移性性脳腫瘍で他界。
1983年10月24日、叔父のかとう哲也が心不全で他界。
1986年4月1日、叔父の香山武彦が心不全で他界。
1989年6月24日0時28分、美空ひばりが呼吸不全の併発により他界。
入院
この事について加藤がこのような話をしだします。
「1987年4月、明治座で開催するコンサートの直後に慢性肝炎と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され福岡市の病院に緊急入院をしました。」
「この闘病の最中に母が病院内でこのような事をしました。それは大勢のファンに対して肉声のテープをこうご披露なさったのです。」
『ひばりは、今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています。あわてない。あわてない。一休み。一休み』
芸能活動再開
「そして、入院から3か月後の8月3日、母は無事退院いたしました。ここから2か月後の10月9日には新曲『みだれ髪』のレコーディングをし芸能活動の開始です。」
「この後、控えてあったのは1988年4月11日、東京ドームのこけら落としのコンサートです。
『不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって』
「これは私にとっては奇跡としか思えないコンサートでした。ステージの帰りの花道の最後に私が控えていて、母がゆっくりと私のほうに向かい歩いてきました。そして、私の目と目が合った瞬間です。そのまま私に倒れこんできました。そして、ドーム脇に待機していた救急車で病院へと運ばれました」
「39曲を熱唱です。あの体で。常人では到底無理でした。まさしく、ひばりは不死鳥です」
母親の涙
この事について加藤がこのように語りだします。
「私は、母親が亡くなる数日前のことです。私は母親の病室におりました。病と闘っている母親にこう声を掛けてあげました。」
『おふくろ、頑張れよ』
「すると、母は最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていました。」
不思議な雨
「そして、6月24日、この日は母親の最期でした。病院へ行き、0時20分頃、自宅に帰ろうと思い車に乗った時です。不思議と突然、雨が降ってきたのです。」
「そして、走りだそうとした、その時でした。何故か病室に戻りたくなり戻ってみると、病室で主治医らが電気ショックをやっていたのです。母親の体が上下に激しくバウンドしていました。それはもう痛々しく見ていられませんでした。」
「そして、私は思わずこう言います。」
『お願いですから、もうやめてください!』
残された最後の家族
「そして側にいた主治医からこう言われます。
『最後に何かお話を』
でも私は、何を話していいのか分からずこう一言いいます。
『大丈夫ですよ』
すると母の口元がかすかに動きこう言葉が返ってきます。
『ありがとう』
「自分はいつも母親に憎まれ口をきいていたので、最後に一言喋れたのはこれくらいです。優しくすると本当に逝なくなってしまうような気がしていました。」
「お袋との別れが来た瞬間、一瞬悲しみが押し寄せてきたのですが、なぜか”これじゃ駄目だ”と思い、いつもよりきっちりしていました」
この事に美輪がこのような話をしだします。
「それは、残されたのは一人だから。お葬式の準備などを一人で全部やらなければいけないため、泣いている暇なんか無いのです。」
「加藤さんは、持って生まれた感度が高く、一人残された身内だから呼び戻されました。自分が亡くなる時は自分で分かるので、一人残した息子に『戻ってきて』という思いを伝えたのです。これは母親の最期の想念です」
歌手・美空ひばりだから
つづけて江原がこう話し出します。
「母親はいつも憎まれ口ばかり聞いていました。でも、それが男の子としての成長だと思っていたからです。仕事のことでもそうです、いつもぶつかり合って喧嘩ばかりしていました。」
ここで江原がひばりさんのメッセージをこう伝えます。
「ごめんね和也、ママは歌手、美空ひばりは母親という存在だけにはなれないの。大変な病気をしても、何度も助かっているので、自分て何なんだ。という自問自答の日々もありましたが、和也さんをいつも温かく見守っていましたよ」
ここで江原が自分自身の母親の最期のことをこう言いだします。
「母親が亡くなったときは、病室の隣で寝ていました。その時、母親が自分の名前を呼び目を覚ましました。そして、隣の病室に入った時です。母親が亡くなったのは」
前世
「前世では二人は本当の親子でした。ですので、肉親以上の愛情がありお互い離れていても気持ちを感じ取る事ができていました。」
ここで美輪がこのような事を言います。
「歌手の情熱や神経は一般の人に説明はできません。ひばりさんの歌のうまさは神技といえます。最後にお会いしたのは1988年のパーティーの時でした。その時は体が透き通って見えていましたので、旅立ちの準備ができていたのでしょうね。そして翌年、逝去しました」
歌い手は歌いたい
ここで江原がこんな事を言いだします。
「ひばりさんが、あちらの世界でも歌っていますよ。ファンも多くいて、こうおしゃっています『私の歌は終わりません』歌い手は歌いたいもの。」
「魂自体が歌い手ですので、これを取る事ができません。それに、他界した家族の方々と仲がよろしくありません。何故かと申しますと、天上界でシャンソンも歌っているのですが、祖母が絡んでくると歌いたい歌も歌えなくなってしまうからです。」
「家族の中でも、ひばりさんに歌の手ほどきをした祖父とは理解者で気が合うようですので、いつも家族らと一緒におります。でも、祖母だけが孤立状態にあります」
母親・加藤和枝からのメッセージ
母親としてのメッセージが加藤に届きます。
「やりたい事は何でもやりなさい。制限は全くありません」
ここで美輪がこう付け加えます。
「加藤さんが目指そうとする自分の世界ここではないと思っておりますね。母親がやりたい事をやればいい、と言っているので、自分のやりたい芸術活動をやるべきです」
さらに江原がこうつづけます。
「魂自体はアーティスティックな世界を求めています。美術や建築が大好きですので、その道に進んでもおかしくありません。ここから初めて自分の世界を手に入る事ができます」
現在
現在は、ひばりに関する事業や権利の管理などを手がけておりますが、「京都嵐山ひばり座」は赤字で閉館され、お台場に「ひばりカフェ」の飲食業も展開していましたが、その後の情報もありません。閉店の可能性が高いです。
2020年1月「東京目黒 美空ひばり記念館」かつて暮らした居宅を使ったメモリアル施設が、14億円で土地ごと売りに出されていると噂されている。果たしてこの噂はどう進んでいくのだろう。
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