内藤大助の前世と現在をオーラ診断 人生の転機 口論

内藤大助のオーラ診断

この口論が次なる出会いを。それはほんの些細なことでした。この事にいら立ちをあらわにし「こんな所なんかにいたくね!」そんな思いで東京で暮らす兄のところを尋ねます。そして、ここで次なる出会いが待っていたのです。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1974年8月30日
出生地 北海道虻田郡豊浦町
本 名 内藤大助(ないとうだいすけ)
身 長 163センチ
血液型 A型
学 歴 北海道豊浦高校卒

スピリチュアルチェック
〇 性格を一言で言うと何ですか?
「心配性です」

〇 毎日欠かさずにすることを教えてください。
「新聞の折り込み広告のチェックです」

〇 怖いものを教えてください。
「母親とゴキブリです」

〇 よく見る夢は何ですか?
「自分が亡くなる夢です」

〇 元気の源は何ですか?
「奥さんと子供、家族といる時です」

〇 人生の転機を教えてください。
「高校卒業後、就職先が決まったが入社式直前に内定が取り消しになったことです」

人生の転機
この事について内藤がこう話だします。

「豊浦高校を卒業後、洞爺湖の某ホテルの厨房に内定が決まっていたのですが、研修中に上司と些細な口論で内定が取り消されてしまいました。1週間後に東京で働いていた兄を頼りに上京します。」

「近所の書店でボクシングの雑誌を見て憧れを抱いたのと同時に、中学生の時の、いじめっ子をびびらせる事ができるという思いもありましたので、下宿先の近くの宮田ボクシングジムに入門しました。」

「もし、某ホテルの上司と口論していなければ、東京にも行かず、ボクシングにも出会っていませんでした」

怖いもの「母親」
内藤は怖いものの問い掛けにに母親をあげました。
この事をこう話しだします。

「北海道に帰る度に説教されていました。もの凄く怖いです。世界チャンピオンになった時は褒められると思い凱旋しますが、この時も褒められませんでした。今まで褒められた事は一度も無いですね」

この事について江原はこう言います。

「母親は内藤さんがいじめにあっていた事に気付いていました。中学2年生の頃から、今までとは違う自分の息子の姿を見て気が付かない訳がありません。」

「強く育てないといけないと分かってはいたのですが、この当時は生き抜いていく事に精一杯でしたので、あえて言いませんでした。内藤自身も母親にいじめの事を言うとことで自覚してしまうのが嫌だったのです」

プロデビュー
この事について内藤がこう話し出します。

「私のプロデビュー戦は1996年10月11日の22歳の時です。対戦相手はレパード玉熊ジムの西野龍三選手でした。試合は1R0分50秒KO勝ちで勝利します。」

「その後、勝利を重ねていき、1998年12月19日全日本フライ級新人王決定戦では大阪帝拳ジム所属の福山登に1R1分00KO勝ちで新人王を獲得しました」

結婚
この頃、同じジムにボクササイズに通っていた真弓さんと出会い。自分の思いを告白していきますが、ボクシングの試合のようにことがうまく前に進んでいきません。それでもめげずにアタックをつづけていきました。

真弓さんは自分自身に対する思いとひたむきに情熱を注ぐボクシング。そして清らかな心をもつ内藤に心が傾いていきます。

そして、2000年に二人はめでたく結婚。

世界初挑戦
2002年4月19日、チャンピオンの地元タイで開催されたWBC世界フライ級タイトルマッチ。相手は最強と言われる王者・ポンサクレック・ウォンジョンカム。果敢に挑戦するも。世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫してしまう。

その後、内藤はリベンジを胸に掲げ国内戦を勝つつづけ、ランキングを上げていきます。

世界再戦と引退覚悟
そして、再度ポンサクレック・ウォンジョンカムに挑むことになります。この時の内藤の心中はこう決めていたのです。

”この試合に負けたらボクシング引退する”

2005年10月10日、WBC世界フライ級王者ポンサクレックに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れてしまいます。

この一言に
そして、内藤は友達らと引退旅行と名付けフィリピンのセブ島に出掛けました。引退のご挨拶を兼ねスパーリングの相手をしてくれていたジムを訪ねたところ、こう言われたのです。

「次の試合はいつやるんだい?」

これを聞いた内藤はこう思います。
「もの凄く爽快感が漂い印象的でうれしく思いました。また一緒にボクシングをしたい」

そして、日本に戻り再チャレンジする事を決意します。

人一倍の努力
この事に美輪がこのようなことを話し出します。

「一般的に日本人はセンチメンタルでマイナス思考のうえ、何かあるとすぐに後ろ向きに考えてしまい情念を引きずるところがあります。」

「ところが、内藤さんはいつも駄目だけどやってみるみようかな。と、ここから始まっています。それと、元々粘り強く耐える事には自信がありました」

この事に内藤がこのように答えます。
「私の母親はいつもこう言っていました。才能が無いなら、人一倍の努力をしなさい。そして、いつもこのようにして生きてきました」

オーラの色
赤色(頑固で情熱的、理想家、短気。生命力があるうえ、活動的で積極性があります。周りに与える影響が大きいためリーダーシップ的な存在といえます。)

このオーラにくすみがあります。自分で駄目だと思い込むと手に負えなくなる部分を抱えています。

偉大な奥さん
ここで美輪がこう言うことを話し出します。

「奥さんってあっけらかんな性格の方ですね。ボクシングに再度挑戦したい時も『あっそ』と一言。こんな感じの方。」

「でも、奥さんがこう言う方だからこそ、これが救いで世界チャンピオンになれたのですよ。これこそ偉大な力です。もし、奥さん共々がっかりしていたら、今頃、暗闇の世界にいました」

内藤がこの事に対しこう言います。

「奥さん共に生活していくのに、いつもギリギリの生活が続いていました。現在のランキングでは生活していけません。世界チャンピオンにならない限りは食べていけませんでした。そこで、奥さんと二人でアルバイトをしていました。」

「限度を超えた時は北海道の母親に援助してもらうこともありました。今の自分らは周りからの絶大な協力に支えられています。もの凄く感謝しています。今は応援してくれる周りの方々のために頑張っています」

ここで美輪がこう言います。
「内藤さんは自身の情念のためだけではなく、周りのため人のためにやっているのが、とっても素敵です」

冷静な判断
2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦。

この時、内藤は32歳10カ月を迎えていた。チャンピオンは前回と同様のタイのポンサクレック。激闘の末、内藤が3-0の判定勝ち。WBC世界フライ級王座に輝く。

同年10月11日、亀田大毅選手との試合は圧倒的な内容の判定で初防衛を果たす。

内藤にとってこの初防衛戦は挑戦者・亀田のラフプレーが強烈なほどひどすぎた。これにぶれること無く試合を進める事ができたのは、このような事がありました。

内藤がインターバルの際にセコンドと話をしたときでした。
冷静にこう言われます。
「お前がやり返したら向こうと同じになるぞ」

この時、内藤はもう切れる寸前でいたのですが、このアドバイスに目が覚めたと言います。

マスメディアの胴上げ
この事に美輪がこう言います。

「内藤さんは、試合後にテレビに出演した際、コメンテーターの失礼な発言にも怒らずじれったいくらいに人がいい方でした。日本人初の世界王者になった白井義男さんは、ものすごく紳士的で、武士道と同じレベルの格調高いボクシングをなさいました」

「マスメディアは必ず胴上げをして差し上げますが、それは3回まで。4回目はありません。有頂天になっている最中に気を引き締めておかないと大変な事になります。持ち上げられたら、必ず注意することです」

地獄から天国へのステージ
江原がここでこのような事を言います。

「この2年間は地獄だったでしょう。あなた自身の苦労、奥さんの苦労、子供を育てる苦労、生活の苦労。今は地獄から天国の華やかな場所に引き出されてきています。正直驚きがありますね。」

「でも、奥さんと共に手を結び、人生を迷わずに歩めば大丈夫です。過去に辛い経験を魂に刻んでいれば、増長、傲慢には絶対になりません」

前世
忍者です。

奥さんとは前世でも繋がりがありました。奥さんの前世も忍者でくノ一でした。忍術は武術と修験道が結びついたもので、武道、武術、行者とも言える忍者です。

内藤さんが夢の中でよく亡くなる夢を見るのは、いつか誰かにやられてしまう。という忍者の心理の現れがそうさせています。

ここで一番問題となっているのは、前世の習性から常に身を隠そうとする。壁際や端っこが好きなのもここからきています。今でもどこかに隠れたい。そんな気持ちになっていますね。

奥さんの影響
奥さんの性格は前世の影響もあり男っぽいです。追いつめられたと分かると、即決で腹を決めます。内藤さんはこの奥さんとの出会いにより、かなりポジティブ思考に変化しました。

以前はいらぬ心配を多くしていましたが今はもう無くなっています。

ここで内藤がこう言いだします。
「家族もいるのでボクシングを引退した後が心配です」

これに江原がこう話し出します。
「もうこのようなマイナス思考は止めること。そのままボクシングの世界を継続していけばいい。選手以外の仕事もたくさんあります」

産まれぬ兄弟の助け
すると江原がここでこう尋ねます。
「足の調子が良くなかった事がありましたよね?」

この事に内藤がこう答えます。
「タイトルマッチ直前に左足の筋肉を断裂した事がありますが、試合ができる状態ではありませんでしたが、不思議と回復が早く治りました」

そして江原がこう言います。

「もう一人兄弟がいましたが流産しています。この兄弟が足の怪我を助けてくれました。この亡くなった兄弟も常に応援していることを忘れないことです。」

「特に何をする必要もありません。この事を理解して頑張ることが大切です。兄弟の事を思い出した時に感謝の言葉をかけてあげてください」

解説者
2012年6月、フジテレビの「ダイヤモンドグローブ」に解説者として加入。

俳優
フジテレビ系の昼ドラ「メモる門には福きたる」で本格的に俳優デビュー。

開店
2013年7月、北海道札幌市に内藤がプロデュースするラーメン店「麺屋べんべ」を開業。

家族
離婚が噂されている記事がありますが、そんな事はございません。現在、子供は13歳と10歳の男の子が二人と奥さんの4人で仲睦まじく過ごしております。

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