加藤茶の過去と現在をオーラ診断 親子の絆

加藤茶のオーラ診断

「母ちゃん。母ちゃん。」と、何度呼びかけたことか。閉じたまぶたは開くことがありませんでした。流れ出てくる涙がこう言うのが聞こえてきました。「いますぐ、母ちゃんの元に行こう。これが俺式の母ちゃんへの愛なんだから」

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1943年3月1日
出身地 福島県福島市
本 名 加藤英文(かとうひでゆき)
身 長 163センチ
体 重 60キロ
血液型 A型
学 歴 松韻学園福島高校卒
グループ ザ・ドリフターズ

出会い
加藤がドリフターズとの出会いまでの事をこう話だします。

「私の実の父はギターリストでした。毎日毎日、ギターを片手に練習をしていました。このような状況の中で過ごしていましたので、子供の頃の私にとっては、この影響はとっても大きく、この頃から音楽にだいぶ興味をもっていました。」

母親の言葉
ここで加藤が母親のことをこう話し出します。
「どうしてもバンドマンになりたくて母親に相談すると、母がこう言います。

『好きな道を進んでもいいです。でもトップになりなさい』

「そして、私は高校卒業後、叔母を頼りに上京することを決意します。」

出会い
「そして私は、福島市の高校卒業、トロンボーン奏者を目指しまして叔母を頼りに上京したのが1961年の事です。その後私は、渡辺弘さんが率いるスターダスターズのバンドボーイをするのですが、当時のマネージャーと大喧嘩をしてしまいここを飛び出しまいます。」

「そんな時、目の前に捨て物のドラムスティックを見付け、これで練習を重ね、ドラマーとしてクレイジーウエストにメンバー入りしました。ここで仲本工事と出会います」

さらにこうつづけます。

コミックバンド
「1962年のことです。新宿のバンドが集まる店でいかりや長介さんと出会います。彼と話をすると、これがとっても面白く、躍動感があり野生的で笑いに対しての情熱を思いっきり感じました。この方となら一緒にお笑いを取れるコミックバンドができるなと思いました。」

「そして、1962年、ドリフターズの前身である『桜井輝夫とザ・ドリフターズ』にいかりや長介さんと共にメンバー入りし自分らを入れメンバーは14-15人ほどになりました。」

「私はこの時期、お笑いというよりはドラムだけで生活していこうと考えていたのです。ですが、ちょうどこの時期は、『ハナ肇とクレイジーキャッツ』がコミックバンドとして一世を風靡していました。」

「この影響は私にとってものすごく大きく。とにかく、このメンバーらがやっていたお笑いがとっても面白く自然と引き込まれていきました。ここから、私も本格的にコミックバンドをやってみたい。そのような頃でした。」

「音楽バンドが主な目的だったドリフターズがここで分裂します。元メンバーの小野ヤスシら4人が脱退し『ドンキーカルテッド』を結成しました。」

さらにこうつづけます。

新生「ザ・ドリフターズ」誕生
「私はコミックバンドの『ドンキーカルテット』にメンバー入りしようとしたのですが、いかりや長介さんがドリフターズに残るよう説得してきたのです。」

「電車の中でも歩いている時も、いつでもどこでも、ずっと私の側から離れず説得してきました。これには、私もとうとう根負けしてしまいドリフターズに残ることにしました。」

「そして1964年、新生ザ・ドリフターズの誕生です。ここでハナ肇さんからこう言われます。」『芸名を加藤茶にしなさい』

「とのアドバイスを受け、この芸名が生まれました。」

「1969年10月4日『8時だョ!全員集合』の放送が始まります。この番組が子供らに受けに受け、最高視聴率は、50.5パーセントを記録します」

母の他界と責任
「1985年9月『8時だョ!全員集合』の番組が終了しました。この時です。私は、母親に何かが起きた。このような、虫の知らせのような感じを覚えます。急いで家に戻ると、家の中が異様な雰囲気に包まれていたのが分かりました。」

「そして母親を捜すと。リビングで母が倒れているのを発見します。救急車を呼んだのですが、すでに手遅れでした。この瞬間、私はこう感じます。」

『これは自分がいけなかった』

「10日前にも脳血栓で倒れていたのですが、とっても元気でしたので、まさか亡くなるとは思ってもいませんでした。この時、病院に連れて行っていれば。と、こんな思いが駆け巡ったのです。」

「そして、自分のせいだと思いました。一瞬、自分の責任をとるため、後を追おうと思ったほどです」

母子の絆
この事を聞いた江原がこう話し出します。

「もし、あなたがそうなっていたら、母親を不幸にしていました。それに母親は寿命だったと言っています。死への合図を感じていたようです。息子をすごく愛していましたので、加藤さんの足を引っ張りたくなかった。こんな思いがありました。」

「これはお母さんが人の世話にはできるだけなりたくない。この性格からきています。それに、母子の絆が他人が入る隙間がないほどあまりにも深すぎます。この事もあり母親が加藤さんの結婚の足を引っ張ってしまいました。ここはマイナスになります」

ここで加藤がこんな事を言います。
「私が後追いを決意していたことをお寺の住職にも言われました。江原さんと同様に、そうしていたら、母親を不幸にしていた。と言われました」

大病の意味
「2006年10月30日、体調不良により緊急入院。検査結果『standard A型大動脈解離』と診断されます。この病の生存率は10%~20%と低く、加藤茶はこの生死をさまよいながら奇跡的に回復します。」

この事について江原はこう言いだします。

「まだ、あなたは生きなければならない人。病気以降は全く新しい人生が開けてきます。何故なら、これ以前は母親との絆に縛られていました。それに、どこかで一人ではないという気持ちもありました。」

「2003年3月、熟年離婚をした元妻が献身的に看病をしてくれたのです。時には娘も手伝ってくれていました。」

これにつづけて美輪がこう言います。

「関心無い人や好きではない人にそんなことしますか?確かに離婚はしましたが、まだ愛情は残っています。」

「加藤さんの心の中には愛情という思いはあったのですが、他人を入れる部屋がすでにありませんでした。今後はお客さんを楽しませることと、家族の支えになることです」

医食同源
ここで美輪がこんな事を言いだします。

「加藤さんは遊びで行き過ぎるところがあります。遊びが害になっても得にはなりません。快楽というものは良い物のように見えるでしょう。でも、実は悪魔そのものなのです。」

「オーラの泉に来た一番の理由は、それに気付くこと。このまま酒を飲み続け食事にも気を付けないとまた大病を患うことになります。医食同源を心がけるようにしなければなりません」

これに加藤茶がこう返します。
「食事はいつも電子レンジばかりです」

これではいけないとばかりに美輪がこんな事を言います。
「病気のフリして元の奥さんに来てもらいなさい。子供のためにも元の鞘に戻ること。この事で子供も天国の母親も必ず喜びます。子供にとって何があっても父親は一人だけなのです」

メッセージ
2004年3月20日、ドリフターズのリーダー・いかりや長介が他界。

ここで、亡き彼のメッセージを江原がこう伝えます。

「まだ世間はドリフターズのコントを望んでいる。みんながバラバラにならないようにしなければならない。加藤はコントをやるためにもお酒は止めること。常に自分は病人なんだ。この思いを忘れないこと」

結婚
2011年6月23日、加藤68歳にして23歳の女性(彩菜)と再婚する。年齢差45歳。

現在は夫婦でテレビ出演することが増えています。
今のドリフメンバーで唯一、前身の「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」時代からのメンバーの一人です。

テレビドラマ
2016年1月「警視庁ゼロ係〜生活安全課なんでも相談室〜」居酒屋の店主・国仲春吉 役で出演。加藤の嫁・綾菜も居酒屋の店主の娘役で出演。2019年7月19日、season4にも出演。
2019年2月9日「小京都連続殺人事件」阿部永次 役で出演。
2019年10月11日「時効警察はじめました」本人役で出演。

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