松田聖子の過去と現在をオーラ診断 不思議な体験 父の夢

松田聖子のオーラ診断

父が亡くなってから10年もの歳月がながれました。そんなある日のことです。私の夢の中に父が現れたのです。そしてお互い色々な話を交わしました。それはそれで特に不思議さはありません。ところが、今、ここに居たかのように。あまりにもリアルすぎるのです。

どうぞ、ごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1962年3月10日
出身地 福岡県久留米市
本 名 河奈法子
身 長 160センチ
体 重 42キロ
血液型 A型
学 歴 堀越高校卒
事務所 felicia club(フェリシアクラブ)

スピリチュアルチェック
〇 どんな子供でしたか?
「いつも外で遊んでいるような元気な子供でした」

〇 苦手なものを教えてください。
「自分の意思や力で外に出ることができない空間に入ってしまうことです」

〇 人生の転機を教えてください。
「デビューした時です」

〇 歌とは何ですか?
「生きていくためのエネルギーです」

〇 不思議な体験を教えてください。
「亡くなった父が定期的に夢に出てきて会話をします。目が覚めると本当に話していたようにリアルな感じになります」

〇 一つだけ願いが叶うとしたら?
「父にもう一度会ってみたいです」

オーディション
松田が歌手になる経緯をこう話しだします。

「私が久留米信愛女学院に入学したと同じぐらいに、地元の福岡市でテイチクレコードの新人歌手オーディションが開催されました。これに参加したのですが落選してしまいます。」

「私の中でどうしても歌手になりたいとの目標がありましたので、このことが、どうしても悔しくて次のチャンスを待っていました。」

「そんな8月の事です。ホリプロが主催した第二回タレントスカウトキャラバン九州大会が開催されることを知ります。そして書類を郵送しましたが、書類選考の段階で落選してしまいました。」

「1978年、高校2年生の時のことです。雑誌「ミスセブンティーン」の中のオーディションの応募を見付けました。私の両親はとっても厳しい方でしたので内緒で歌を録音したテープと書類を送りました。」

「数日後、予選合格(九州大会本選出場)の通知が届きます。これには飛び跳ねて喜びました。」

「それには、このような理由もありました。」

「それは、ゲストの審査員が私の大好きな郷ひろみさんだったからです。それと、優勝すると”アメリカ西海岸のディズニーランド”でした。あのミッキーマウスに会えるんですよ。」

「喜びもつかの間、優勝したことが母親にはすぐにばれてしまい叱られましたが、半分納得はしてもらいました。でも、父親にはどう話そうかと困ってしまい、翌日、母親と一緒に報告すると、こう怒鳴りつけられます。」

『コンテストは辞退しなさい!』

さらにこうつづけます。

説得に納得
「コンテストを辞退し高校生活を送っていた数週間後のことです。ディレクターから連絡が入りこう言われます。」

『別の形でデビューしませんか?』

「レコード会社の方々が契約の話に訪れ、色々と話をするのですが、父は決して首を縦に降りませんでした。そして、母親が間に入り説得し納得させるまで2年もかかりました。」

ここで江原がこんな事を言います。
「お父さんは厳しい方でしたが、音楽や芸術が本当に好きな方で、聖子さんとはジャンルは違っていましたが、よく音楽を楽しんでいる方でした」

デビュー曲
松田聖子は元々女優デビューが先でした。

最初のオーディションは資生堂「エクボ洗顔フォーム」のCMモデルだったのですが、残念なことに松田自身はエクボを作ることができません。そのため不合格となるのですが、その代わりに、このCMソングを歌う事が決まります。

その曲が『裸足の季節』です。

そして、1980年4月、18歳の時にこの曲で歌手デビュー。伸びのある透明感のある歌声が注目され瞬く間にトップアイドルに上り詰めていきます。その後は24曲連続でオリコンランキング1位を獲得します。

父親との約束
ここまでの事を松田はこう言います。

「父親から3年間一生懸命やっても駄目だった場合、芸能界を諦め学校に戻りなさい。と言われていましたので、父が芸能活動を許してくれた嬉しさの反面、何が何でも頑張る。と言う強い思いがありました」

超多忙の中の結婚
毎日、毎日が超多忙で自分が売れている事を考える暇もありませんでした。睡眠時間は1日2~3時間程度だったのです。そんな中、1985年5月に公開された、松田聖子主演の映画「カリブ・愛のシンフォニー」で神田正輝と初共演を果たします。

この共演後、一か月もしない同年6月に2人は結婚。松田聖子23歳です。

沙也加誕生
翌年10月1日、第一子となる女児が誕生。

2002年5月、娘の沙也加が15歳の時にドラマ「ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~」主題歌で歌手デビュー。

この娘がデビューする前のことです。母親の聖子は芸能界の辛さを知っているだけに、幼い頃から他の事に興味を持たせようとしていました。しかし、この頃から芸能界に憧れを抱いていました。我が子には辛い思いをさせたくない。そんな思いから、聖子は大反対をします。

この時です。所属事務所の社長からこう言われます。
「自分の17歳の頃を思い出してみなさい。これが子を持って初めて知る親の恩です」

歌が好きなの
ここで松田がこんな事を言いだします。

「デビューから20代までは、立ち止まって周りの景色を見る余裕すらありませんでした。でも、こんな毎日でしたが、歌を辞めようと思ったことは一度もありませんでした。」

「40代に入った頃からは、自分の時間を自分のリズムで仕事を進めていけるようになっていきました」

この事について美輪がこう言います。

「歌が好きだから辞めようとは思わなかった。それに舞台の上で歌っていると、生きているという充実感を感じる事ができます。それに、力が湧きだして元気も出てきます。」

「あの美空ひばりさんもそうでした。嫌な事があっても歌う事で全てを帳消しにしていました。歌手になったのは自然の道です。その時に応じてやるべき事をやり、好きな事をしてきただけの事なのです」

女性市場
さらに美輪がこうつづけて話します。

「誰でも目標に掲げたことをやっていきたい。でも、可能にすることは難しい。でも、聖子さんはこれが出来る人。だから、女性ファンが多いのが、この理由になります。」

「日本では女性と子供を敵に回したら勝負になりません。男を相手にしていたら勝負に勝つ事はできません。女性に支持されているのは、息が長い証拠です。」

1996年、自ら作詞作曲した「あなたに逢いたくて」が女性に受け大ヒットします。

不思議な体験「父の夢」
ここで聖子がこの事についてこう話し出します。

「父親は11年前の1997年に他界しました。この亡父が夢に出てきて会話をしてくれます。そして、朝、目が覚めると現実に話したかのような感じが残っています。さらに、抱きしめられた感触も残っています。本当に不思議です」

この事について江原がこう答えます。

「このことは、確かに形としては夢です。ですが、実際には会っています。お父さんは親としての使命感が強く、聖子さんを守ろうとする気持ちが強くあります。それに、お墓を移すという話はありますか?」

ここで聖子がこう言いだします。
「現在は父親の故郷 福岡県柳川市にお墓があるのですが、父の長男が神奈川県に住んでいますので、この近くに墓を移そうかなと言う話が出ています」

この事に江原がこう話します。

「父親は娘を守る一心で1981年、母親と一緒に上京しましたが、食べ物から何から何まで東京には馴染めませんでした。亡くなった今でも望郷の念が強くあります。家族のため生きて来た人です。できれば移さずに残して置くことを勧めます。」

「今。父親は親孝行して欲しい。ともおっしゃって言ますよ」

霊媒体質
ここで江原が松田を見ながらこう言いだします。

「聖子さんは霊媒体質で瞬間的に変わる人です。自分は自然でも、周りの人から見ると別人のようにモードが変わる人です。話題の切り替えが早いのですが、全く意識していません。会話が全然かみ合っていないこともよくあります」

すると松田がこのような事を言います。
「娘と話をしていると、話が次から次へ飛ぶ、とよく言われます」

役目
この事につづけて江原がこう話し出します。

「霊に支配されそうになったら、跳ね除けるようにしてください。束縛されるのが嫌。恋愛で人生を振り回されるのは嫌。女性だからというのが嫌。」

「これは、前世の流れで何度も束縛されてきたからです。大きな言い方をすると女性の人権になります。女性がもっと伸び伸びと生きることを表現したい。」

「だから、音楽で多くの女性にメッセージを伝えエールを送っています。この事に勇気付けられている女性はたくさんおります」

この事につづけて美輪がこう言います。

「人間としてどうあるべきか、男女・芸能人などは関係なく、戦い続ければいいのです。それを忘れないようにするため、フランス革命の時の有名な絵「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ作)を見ること。」

「そして、女神を自分自身だと思えばいいのです。この世で最も素晴らしいものは、誰にも束縛されない自由だと思えるようになります」

父親のメッセージ
江原が父親のメッセージをこう伝えだします。
「娘の苦労を見てきて自分が変わることができた。聖子のおかげでみんなが結束できるようになった。それに体が冷えないようにきちんとしないといけない」

そして江原がこう付け加えます。

「お父さんは娘のために人生の半分を差し上げてきました。これは聖子さん一人の活躍ではなく家族みんなのおかげです。」

「聖子さんは寒がりで冷え性なのに自分で何もケアをできていません。父親が生きている時は秋になると暖かい布団に替えてくれていました。今は自分でもきちんとやること」

つづけて美輪がこう言います。
「亡くなった後に偲び、いつまでも思い続けてくれる家族がいれば仏様は幸せです。お父さんは思い残すことなく生き抜きました」

怪我
2017年6月10日 – 8月20日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2017 daisy』を開催 (5か所8公演)7月8日の東京公演は、怪我のため椅子に座った状態で行われる。

ディナー
同年11月 – 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。

主題歌
同年11月24日、NHKドラマ『マチ工場のオンナ』の主題歌を担当する。

ディナー
2018年11-12月、クリスマスディナーショー開催 (11か所24公演)

ツアー
2019年6月8日-8月3日「Pre 40th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour 2019 “Seiko’s Single Collection”」を開催する。

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