倉本聰の前世と現在をオーラ診断
体に何かが憑依したかのように、いつもの自分ではない自分が動き始めていく。その後が大変。体が破壊されるような体調の変化、それに疲れ切った時に出会う先生のあの一言。
どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。
プロフィール
生年月日 1935年1月1日
出身地 東京都
本 名 山谷馨
学 歴 東京大学卒
スピリチュアルチェック
〇 今の気持ちを教えてください。
「なぜここにいるのか、よく分かりません」
〇 最近、嬉しかった事を教えてください。
「いっぱいありすぎます」
〇 最近、腹が立った事を教えてください。
「これもいっぱいありすぎます」
〇 宝物は何ですか?
「今、育てている森です」
〇 苦手なものを教えてください。
「雷とお化けです」
〇 番組へお誘いした国分太一さんへ一言お願い致します。
「どうぞ、お手柔らかに」
戯曲「帰国」
劇作家お倉本聰が2009年、
富良野演劇工場により初演した戯曲「帰国」の事についてこう話し出します。
「自分が描く作品というのは気付いたら、いつの間にか書いていたと言うのが多くありますね。そう、この『帰国』もその作品の一つになります。」
「原作は太平洋戦争中に南の島で戦死した英霊たちが終戦から10年後、物が溢れかえり技術が進んだ現代の日本に帰国し。そして、こう言います。」
『日本はこれで本当に幸せなのか?』
「と疑問を投げかけるところから始まります」
この新作舞台「帰国」を見た江原がこう言います。
「私がこの舞台を劇場で見た時です。その場で英霊を見てしまいました。ここの劇場に来ていたのです」
このことに倉本はこんな事を言いだします。
「実は、この舞台を見た方々は、あきれて非常に怒るのではないか?という気持ちが非常に強くありましたね。昔と今の日本人で変わったのは倫理観です。舞台では最後に『恥を知れ』という言葉があります。それは、今の日本人が忘れているのは恥だからです」
不思議な体験 体の変調
そして、ここで倉本がこのような事を話し出します。
「1972年頃の事になります。自分が書く作品が想像を超えていました。とにかく書くスピードが違います。早い時は1日で書いた事もありました。」
「但し、その後が大変なんです。肩こりがひどく、嘔吐までしていましたから。このままでは体が破壊されてしまう。そこで、この事を友人に相談をしたところ、彼がスピリチュアルの先生を紹介してくれたのです。」
「今までの経緯を相談したところこう言うのです。」
『そのような状態になるのは当たり前です。あなた自身が書いていないからです。神様に書かされているからです。この状態を改善するにはお香を焚きながら仕事を進めてください』
「ですので、私はその日からお香を焚きながら作品を書き始めました。」
不思議な体験 お香
「そんな日々が過ぎていった時です。自分の中で”素晴らしい作品が書きあがった”と思った瞬間です。お香が私の体に巻き付いてきたではありませんか。周りを見渡しました。部屋は完全なる密閉状態でしたので風の仕業ではありません。」
「私はこの不思議な現象の事をあのスピリチュアルの先生に尋ねたところ。
先生はこう言い出します。」
『今回のこの作品は必ず賞を取りますよ』
「その後、この作品が先生が言う通りにゴールデンアロー賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。」
その作品名は『前略おふくろ様』です。
この時の事を倉本はこう話し出します。
「この賞は私が取ったのか。霊が取ったのか。という不思議な気持ちになっていました。そこで私はこう強く思います。」
『この賞を取ったのは自分だ!自分が取ったんだ!』
「こう思いを込めたところ、その後の4年間は全く良い作品を書くことがでません。ここで自分の不純さに気付きもがき続けました」
さらにこうつづけます。
清らかな魂
「そんな時です。テレビを付けましたらドキュメント番組がはいっていました。その人物は、あの板画家の棟方志功先生でした。それを見ていましたら、このような言葉に出会います。」
『僕は作品に責任なんて持っていない。僕が作っているんじゃないから。神様が作らしているのだから』
「これを聞いた瞬間です。」
「私は、アーティストやクリエイターは、霊や神様に奏でられる楽器であればいい。そう、思うようになっていました。そうなんであれば、常に清らかな魂に自分を置いておけば、良い物を持ってきてくれる。」
「そんな考えになりました。そして『北の国から』あたりから、自分で書いている気はまったくしません」
この事に美輪がこう付け加えます。
「書かされているのは、霊的には自動書記です。あの三島由紀夫さんもそうでした。眠くて仕方ないのに筆だけが活発に動いていました。後から添削しようとしたら、何かの力が働いて筆を入れ書き直すことができませんでした」
北海道との出会い
ここで倉本が北海道への移住についてこう話し出します。
「仕事のことで東京のNHKの担当者と喧嘩になりました。ふっと、気が付くと何故か北海道の千歳空港に降り立っていたのです。私はNHKの西口を出たところまで覚えているのですが、その後は全く記憶がありません。」
「今ではトラブルがあったNHKに感謝しています。このトラブルも北海道に行く原因で、これも神様の仕業なんですね。もし、これがなければと思うとゾッとします。」
「札幌に2~3年住んでいて、その間に北海道のどこかで永住しようと思い、北海道中を見て回っています。この地に住むようになってから自然が大切に思えるようになりました」
ここで江原がこのような事を言います。
「倉本さんを必要としている神様がおります」
その後、倉本聰は永住地を富良野市に決めます。
1985年12月、書籍『ニングル』(森林を伐採する人間に警告を発する)を発表。
2005年、富良野自然塾を設立し閉鎖されたゴルフ場に苗を植えて森に戻す活動をする。
カナダ原住民との暮らし
倉本がここでカナダの話をしだします。
「親しいカナダの原住民の所で暮らしてみました、何故かとっても不思議な気持ちになります。初日は、怖くて眠れませんでした。側にいた霊感の強い女性がこう言います。」
『テントの周りに原住民の霊が歩いています』
「そして、その翌日からは憑き物が落ちたようにものすごく深く眠れるようになりました。きっと前の晩は原住民の霊が自分らのことをテストしていたんでしょうね」
前世
ネイティブアメリカンです。
ここで倉本がこう言います。
「私はカナダへ行った時は、いつも故郷という感じがしています」
苦手なもの「雷とお化け」
苦手なものはお化けというのは神に対する畏れになります。この畏れを知らなくなると、人間は図々しくなります。
戦前と戦後の違い
ここで倉本がこのことについてこう話し出します。
「自分に恥じないか何かに見られているという行動の基準が違います。戦後は倫理観が無くなってしまいました。その代わり、法律で規制されるようになりました、法律の網目をくぐれさえすればいい、このようになってしまいました。残念です」
愛の蓄え
「富良野自然塾の学習プログラムの中で、子どものために死ねる人は手を挙げてください、と尋ねてみたところ60数人の人がおりましたが、手を挙げたのはたったの6人だけでした。本当に愛の蓄えの量が少ないと思いました」
この事について江原がこう話し出します。
「命を分けた自分の分身だからこそ命を引き換えにできるのです。今は自分の命とはセパレートとなって育っていますから死ぬ気にはなれないのです。世の中が便利になると怠け者になるものです。」
「豊かとは富裕にして幸せなことなのですが、今の日本は幸せが欠落し富裕が優先しています」
父親の仕業
つづけて江原がこのような事をこう言います。
「倉本さんのお父さんが先ほどからずっと側にいますよ。北海道に行く切っ掛けとなったNHKとのあの喧嘩は父親が乗り移り仕掛けたものだったのです」
この事に倉本がこう言います。
「自然の中に連れて行ってくれたのも、文学に目覚めさせてくれたのも父親でした。何で喧嘩をしたのかも覚えていません」
さらに江原がこうつづけます。
「父親が終わりを考えないようにしなさい」
とおっしゃっています。
この事に倉本がこう答えます。
「1本作品を書き終えると、これが最後だと思ってしまいます。断筆宣言をした訳ではありませんので、また書きたくなったら書きます」