田中義剛の前世と現在をオーラ診断 天国からの伝言

田中義剛のオーラ診断

「もう一人だけか」お花畑牧場の片隅でこうつぶやく。そんな時、その残された従業員が語りかけてきた。それは、とっても重要な今まで気づかない計画だったのです。この彼の存在が今日明らかになります。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日:1958年3月13日
出身地:青森県八戸市
本 名 田中義剛(たなかよしたけ)
身 長 184センチ
血液型 A型
学 歴 酪農学園大学卒
事務所 アップルフロントクリエイト

スピリチュアルチェック
〇 小さい頃、どんな子供でしたか?
「きかない子供でした」

〇 趣味は何ですか?
「馬に乗ることです」

〇 よく見る夢を教えてください。
「カビに襲われる夢です」

〇 人生の転機を教えてください。
「16歳の時に一番の親友が船で遭難して亡くなったことです」

〇 不思議な体験を教えてください。
「親友の葬儀から帰る途中、自転車の電気が消えて、後ろに誰かが乗っていてすごく重く、後ろは振り向くことができませんでした。恐らく、その親友だと思いました」

親友との別れ
田中が親友の話をこう語りだします。

「自分は水産都市として有名な青森県八戸市に産まれました。ごく普通のサラリーマン家庭に育ちます。湊中学校に進学と同時に漁師を父に持つ同級生と出会います。この彼とは出会った瞬間から意気投合です。毎日が本当に楽しかった。」

「自分はこの時、一生涯の親友に出会ったと確信できるほど、胸に突き刺さるものがありました。」

「その親友が高校1年の16歳の時のことです。コック長として初めて漁に出ました。ところが船が難破し親友は亡くなってしまいます。」

さらにこうつづきます。

北海道へ
「この親友は将来の夢をこう語っていました。」
『俺は日本一の漁師になる』

「このような夢を抱いていた友が亡くなってしまい。将来の夢も何も持たない自分が生きている。この事が分からなくなり塞ぎ込んでしまっていました。」

「翌年の1976年のことです。私は友の哀悼の意を込め北海道の襟裳岬まで行きました。気が付くと帰りのお金が無くなっていました。」

新しい生命の誕生
「そして、日高門別駅で降りることにしたのです。すると、目の前に大きな牧場があり、いきなり飛込み自分はこう言っていました。」

『お願いです。ここで働かせてください』
と頼んでいました。

「自分はここの牧場で初めて新しい仔馬の生命の誕生を見ました。これには涙が出るほど感動したのを覚えています。ここで、自分はこのような事を思いました。」
「亡き友が”ここで牧場をやれ”と言う事なのかな。」

「不思議なもので、ここから元気が湧いてきました。そして、八戸北高校を卒業後、北海道の酪農学園大学に入学しました」

夢を語る
田中が自分の将来の夢の事についてこう話し出します。

「大学4年生の時のことです。卒業後の事について担任の先生に自分はこう宣言します。」

『先生、俺。牧場をやる』

「すると担任からこう言われます。」

『田中君。最低でも2億円の資金が必要になるぞ』

「この時はショックでした。でも、牧場のオーナーになりたい。この思いはどうしても諦められませんでした。」

直感
「そんなある日の事です。松山千春の歌がラジオから流れてきたのです。歌の後のアドリブを聞くと田舎からギター一本でお金を稼いでいると言っている。」

「この時、自分はこれしかない。と直感しました。ところが、ラジオの歌のオーディションを受けるも不合格。しかし、しゃべりで合格をもらいます。その後、ラジオ番組『田中義剛の酪農根性(深夜5分間)』のパーソナリティーの担当を受け持つことになったのです」

さらにこうつづきます。

東京進出
「1987年、28歳の時です。『オールナイトニッポン』のパーソナリティになった事を切っ掛けに、東京に進出します。」

「この時、同郷の吉幾三さんから『いつでも面倒みてやるから東京さ来い!』この言葉を信じ上京するのですが、吉さんは自分の顔を見るなりこう言います。

『あれは、冗談のつもりだった。本当に東京に来たもんだ』

「と言い残し地方巡業へと出掛けて行ったのです。」

「自ら必死で所属事務所探しを始めるハメとなります。そして、現在の所属事務所の社長に頼み込み入れてもらいました」

タレントはいつか終わる
ここで田中が芸能界から牧場主になるまでのことをこう話し始めます。

「私は上京してから芸能活動をはじめレギュラー番組を10本以上持つようになります。そんな時でした。東国原英夫さんと会う度にこのような話をされてきました。」

『タレント生活というのはいつか必ず終わる。この芸能界にずっと居座るタイプじゃない』

「と言われていました。こうなれば、もうここに心あらずの状態です。自分は芸能界を辞める準備ばかり考えていました」

牧場開業
「1994年の事です。私は、所属事務所から2億円を借りて北海道中札内村に7万坪の土地を購入します。そして、念願であった牧場経営(花畑牧場)に乗り出したのです。」

「しかし、販売する商品はカビのクレームでてんてこまい。10年間赤字がつづき、職員は次々と退社していきました。残った職員は1人と赤字4億円。」

「もう辞めようと思いましたが、家族にはどうしても言えません。この膨大な借金がいつも頭から離れずおかしくなりそうでした。この赤字補填のために、東京で芸能活動するしかありませんでした」

アイデア
田中義剛はより多くの知名度を上げていくために、番組共演者やスタッフに自社製品を手土産にしていきます。持参したチーズの味を気に入った関係者にレストラン等々の飲食店を紹介してもらい少しずつではあるのですが販売経路を見出せるようになっていきました。

そんな中、この窮地を救ってくれたのが、ひょうたん型のチーズ「カチョカヴァロ」でした。これが、面白いように売れていきます。花畑牧場の製品の中で一番のヒットです。

これに加えチーズ製造過程に出る液体「ホエー」を豚のエサに使用したホエー豚酪農を始めました。さらに、この養豚場に微生物を活用した「バイオベッド」を敷き詰めPRします。

そして、メディアが生キャラメルを取り上げこれが大ヒット。現在の花畑牧場の年商は50億円に達します。

亡き友の陰の力
ここで美輪がこんなことを話し出します。

「牧場に残った1人は亡くなった友達に似ていませんでしたか?亡き友がその人に時々乗り移っていたのです。その彼の言うことで時々我に返っていたはずです。その方も何回も辞めようと思っていました。でもこの時、友達が乗り移り止めていたのです」

この事を聞いた田中がこう言いだします。

「言う言葉がいつも核心を突いていました。この方が辞めたら自分も辞めようと思っていました。ここからの復活は奇跡だと思っています。諦めなかったから今があります。現在の職員は500名を越えたのも亡き友におかげです」

天国の友からの伝言
そして、ここで江原がこんな事を言いだします。

「亡くなった友達はずっと一緒にいます。そして、こうおっしゃっています。」
”船乗りになりたかったのは本当の気持ちではなかった。親を楽にしたかっただけ”

「人の笑顔が欲しいので、田中さんにその道へ行けとおっしゃって言ます。それにすぐに諦めるのが早い。北海道中札内村の牧場を買っていなかったらここまで粘れなかった。友達に花を手向けた思い出の場所。ここだから粘れたのです。」

「もし、他の場所だったらとっくに諦めていました。田中さんが飛行機でここに帰って来る時、いつも空の上から思い出の場所を見ていました。」

「田中さんは親の言う事も、他の方のいう事も聞き入れません。でも、この友の事だけは聞き入れます。何故なら、産まれて初めて心の絆を結んだ友人同士だったからです。この二人には夢を託し託された心の絆があるからなのです」

前世
フランスで農場(ぶどうとワイン)をやっていた人です。

親から苦労なく農園を引き継いでいますので、苦労が分からず道楽三昧の毎日が過ぎて農園を破たんさせています。この時の趣味は馬です。いずれ、ぶどうとワインにも事業を広げる可能性があります。

ここで田中がこう言いだします。
「ニュージーランドに欲しいと思っているワイナリーがあります。購入する計画があります」

経営学を学ぶ時
この事について江原がこうつづけます。

「今が要で、これからが注意が必要になります。借金は返済しましたので、これからは、会社の体制をきちんと作り上げなければいけません。今、限界が来ていて、不協和音も出ています。」

「ここで、経営を学んで維持しなければいけません。人心掌握術もあります。仕事になるときつい口調となって、それがいつしか相手の恨みに変わっていくのです。従業員の生活や土地への貢献もあるため、みんなの笑顔を無くさないようにすること。これが大事です」

そして美輪がこうつづけます。

「今までは根性と情念で生きていました。会社が大きくなると、根性や精神論だけでは成立していきません。理性だけで全てを計算し怒りは一旦飲み込んでんで指示をださなければなりません。これが経営者の帝王学になります」

このことに田中がこう答えます。
「現在、自分ひとりではどうにもならない状況に追い詰められています。友達が奇跡をプレゼントしてくれたなら、それを少しでも長続きさせていきたい。そんな思いでいます」

田中正助お爺さん
ここで江原が田中のお爺さんの話をし出します。

「田中さんのお爺さんは山形県で稲作の改良普及に努め、近代稲作の父とも呼ばれた田中正助さんで石像も建っている方になります。それで、近代稲作を広めるため全国を講演して歩いた方になります。また、長唄も上手で人に手ほどきもしていました。」

「1958年2月にこのお爺さんは亡くなっています。義剛が誕生する一カ月前のことでした。周りからは生まれ変わりだと言われているようです。それに音楽も共通しています」

さらにこうつづきます。

家族への感謝
「それと、もう一つは家族への感謝です。家族から支えられている愛情を常に感謝することです。今が本当の境目となっています。」

「田中さんは自分でも薄々感じているはずです。この番組に呼ばれたのも、家族と前世からの助言を受け取るためです。お爺さんの墓参りも節目節目に行く事。アイデアを授けているのは商品開発に興味があったお爺さんです」

つづけて美輪がこう言います。

「助けてもらってばかりでは困るのです。守護霊らにもう安心です。と言えるようになるまで頑張り続けなければなりません。人望がある人なら、必ず職員もついていきます。天狗になる前に感謝が一番大切です」

現在
「花畑牧場」ブランドとしての地位を獲得する。

自社工場も拡大し年商も100億円以上、従業員数も1500人を超える規模に成長する。自身はテレビのバラエティ番組やラジオのパーソナリティの仕事をしながら花畑牧場ブランドをはじめ、北海道の農畜産物を道外へ売り込む等の営業も展開している。

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