西城秀樹のオーラ診断
次の曲を控えていた私は、話では幾度か聞いて知ってはいたのですが、自身が経験するとは思ってもいませんでした。それは「宙に浮いている」です。この体験のあと私のこの曲が。
どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。
プロフィール
生年月日 1955年4月13日
出生地 広島県広島市
本 名 木本龍雄(きもと たつお)
身 長 181センチ
血液型 AB型
学 歴 明大中野高校定時制卒
事務所 アースコーポレーション
職 業 歌手・俳優
スピリチュアルチェック
〇 小さい頃なりたかった職業は何ですか?
「ドラムのミュージシャンです」
〇 毎日欠かさずにする事を教えてください。
「ウォーキングとストレッチです」
〇 不思議な体験を教えてください。
「幽体離脱もどきですね」
〇 人生で一番辛かったことは何ですか?
「父の死です」
〇 将来の目標を教えてください。
「いつまでも健康で歌える事です」
不思議な体験「幽体離脱」
この体験を西城はこう話し出します。
「1979年、私が24歳の時です。”ヤングマン”が大ヒットする直前の事でした。自宅で何気なく手のひらを開いて見ると、金粉のようなそんな汗をかいていました。」
「その後、心臓の鼓動がはじまり、気が付くと上空から自分の体を見下ろしながら、空を飛び風を感じていました。怖いと思った瞬間。本来の体に戻っていたのです」
この事について江原がこう言います。
「西城さんほどスピリチュアルな方はおりません。人生を遡ると奇跡の連続のうえ強いものに守られています」
父親
西城がこの事についてこう話し出します。
「私の父はジャズギターを好みいつも弾いていました。この影響は私にとってかなり大きかったですね。そして、9歳の頃からジャズギターに興味を抱きはじめ弾いていたところ、これを見た父がジャズスクールに通うように勧めてくれたのです」
新たな音楽との出会い
「ところが、スクールに通っている時でした。ビートルズの音楽との出会いです。その中でリンゴスターに憧れを抱いていきドラムに夢中になっていました。そして、私は音楽で成功し、ロンドンに住むことを夢としたのです」
歌手デビュー
この事について西城はこう話し出します。
「私が山陽高校時代の頃です。広島市内のジャズ喫茶でバンド出演時にヴォーカルを担当していました。ここで芸能事務所・芸映のスタッフの目に止まり声をかけられます。スカウトです。さっそく、この事を父親に相談したところ猛烈に反対されました。」
「私自身もよくこのことを考えました。が、どうしても音楽活動がしたい。この思いが強く、家出同然の状態のまま上京を決意します。」
「そして、明大中野高校定時制に編入。1972年3月25日、西城17歳「恋する季節」で歌手デビュー。予想していた以上にヒットを飛ばします。」
「でも、父親の芸能活動の反対は続いていました。後に分かるのですが、父親は表向きはもう反対でしたが、本音は音楽活動を応援をしてくれていたのです」
ここで美輪がこのような事を言います。
「目の中に入れても痛くないくらい愛していたのです。それは、溺愛でも自身をコントロールしながらの愛し方でした」
父親の死
西城はこの父の死をこう振り返ります。
「父は晩年、認知症を患っていました。息子としての自分の事は分かってもらえず、でも歌手、西城秀樹の大ファンでいたのです。こんな状態の父を初めてディナーショーに招待した時のことです。」
「ショーが終わり父親に歩み寄ると。父はこう言います。
『秀樹、結婚しないのか?』
西城42歳の時でした。
「1999年、舞台、”寺内貫太郎一家”の千秋楽の日、父親の危篤を知らせる連絡が入ります。すぐさま、広島へ戻り父親と対面、共にする時間は30分間でした。その中で、こんな事を聞かされます。」
『あなたのお父さんは西城秀樹に会う為に、痛み止めを打たずに待っていたのですよ。あなたが来るのが分かっていたかのように。西城秀樹をこよなく愛し続けた一人のファンとして』
この事について私はこう言いました。
「呼ばれたような感じがしました」
脳梗塞
2003年の韓国の済州島でのディナーショーの時です。
突然、体に異変を感じました。平衡感覚はまったくなく、上手に話す事ができず、音程は乱れる。地元の医者に診てもらったところ詳しい病名は分かりませんでした。
ひとまず、ディナーショーは決行しますが公演は、それはもうひどいものでした。翌日、日本で診察を受けたところ脳梗塞の一種である「ラクナ梗塞」を発症していたのです。
うつ病
そして、3ヶ月後、思うように言葉が出てこない失語症に。
つづいて、うつ病を発症します。
西城自身は「このままじゃ生きていけない」と思うようになりリハビリを続け、回復傾向にあったのですが、精神的には落ち込んでいく状態が約3年間つづきます。
この3年間が休息の時間だったかのように、西城は病気改善するための気力が湧いてきます。今までの自分とは全く違い、リハビリを頑張っている自分が好き。そして、70パーセントの自分がベスト。そう思った瞬間、色々なことが出来るようになっていく自分がいました。
すべて家族の支え
西城は嫁にこう言います。
「もう歌うことができない。引退したいと思っている」
すると嫁がこんな返事を返します。
「病気になったんだから、ゆっくり時間を掛けてゆっくりと歩いて病気を治していこう」
ここで西城は、焦っていたのは自分だけだったんだ。と気が付くのです。
ここで家族から頑張れる切っ掛けを頂き、言語障害のトレーニングをはじめ、有酸素運動、舌の筋力アップ、発声練習等々、4年間の歳月をかけ元の声に戻したのです。
そして、歌声の回復には舌運動訓練、構音訓練、箸動作練習、口唇運動等々、嫁が支えとなり訓練をつづけていきます。
脳梗塞を招いた原因
西城の脳梗塞の原因となったのは、西城のやる気が反作用を起こしていました。
2002年6月3日、第一子となる女児が誕生。これに西城は今以上に頑張ろうとする気が高ぶり、ろくな水分補給もせず、ひたすら発汗させる毎日。それに食事もロケ弁、スタ弁の毎日。これに無理なダイエットが重なります。この積み重ねこそが脳梗塞の原因を作っていったのです。
嫁
2001年6月30日、大阪府の一般女性と結婚。17歳年下でした。2002年6月長女を出産後の2003年6月21日、西城は公演先の韓国で脳梗塞を発症。この時、嫁のお腹の中には第二子となる男児を身ごもっていました。
この突然の事故の知らせに最初はうろたえていましたが、すぐさま入院先の病院への差し入れです。
この行為に美輪がこう言います。
「女の人の切り替えは早いです」
そして江原がこうつづけます。
「お嫁さんは痛みの分かる方で慈悲深い人。精神的にご苦労なさっている方です」
人生の歩み
2003年9月30日に長男が誕生しました。
この日の事を西城はこう話し出します。
「とっても体が軽く言葉も軽快でしたので、ここから、さらに頑張りましたら、回復のスピードが増していくのが分かりました。なんか自信が付いたようなそんな感覚でした。」
「今まで嫁には亭主関白で接していましたが、それも変わりました。さらに鳥のさえずりを聞いただけで心の安らぎを感じるようにも。全体的に人生の歩き方が変わりましたね」
幸せの見過ごし
さらに西城がこう言います。
「脳梗塞の病気を乗り越えてから、健康が一番ですね。普段、健康でいることが当たり前のように思っていました。しかし、病を患い健康が当たり前じゃないことを経験し、今、ほんの小さなことでも幸せを感じるようになりました」
ここで美輪がこのような事を話し出します。
「黒が深いほど生成りの布でも真っ白に見えます。黒を知らない人は、白の白さが分かりません。苦しみや挫折を知らなければ、幸せが分かりません。世の中の人は皆、幸せだらけです。しかし、それを見過ごしています」
前世
中国の武将でした。
なので、今生ではスーパースターでいることが苦痛ではありませんでした。前世では常に人の上に立っていましたので、庶民の思いや感覚が分からなかったのです。
この事に西城がこう言います。
「ちょっとしたことが、いつも分かりませんでした。だから、嫁からまともな事を教えてもらっていました」
ここで江原がこのような事を話し出します。
「病のメッセージは、親としての気持ち、夫としての気持ち、弱い人の気持ちを全て学ぶ事が重要です。一般の人たちと混じってリハビリをするのは、辛いものがおありだったでしょう。でも、これこそが学びです」
さらにこうつづけます。
神からの導き
「幽体離脱は大ヒット曲を出す前に不思議な現象としてが起きています。ブレイク前に特殊な感覚。それは、恐怖のような場合もあり、今回のような幽体離脱もあります。その時は何がなんだか分かりませんが、間違いなく何かに導かれます。」
「西城秀樹はスーパースターへと導かれ、そして、日本に元気を与え人々と共有したのです。これは父親が一番望んでいた人生でした。」
価値のないスター
ここで美輪がこうつづけます。
「芸能界では、自分の価値観と市場価値観を混同してしまっています。自分と自分の周りは大スターと思っているようですが、天上界から見ると何の価値もありません。」
「今世には、そんな世界がたくさんあります。若くして有名になったスターほど勘違いしやすく、この事に、気が付く人と気付かない人がいます。」
この事を聞いた西城がこのような事を言います。
「生活の上でのスターになります」
もしもの準備
ここで江原がこのような話をしだします。
「あなたの父親も同じことを言っています。息子は別の世界に巣立って行ったので、陰で応援していました。」
「しかし、現実の厳しさを知っていたので反対していたのです。1日でも長く自分が元気でいて、万が一、息子が戻ってきた時は、すぐ道が切り替えられるような準備だけしておけばいいと思っていました」
結婚への驚き
さらに江原がこうつづけます。
「父親が認知症で息子という意識は薄れてはいましたが、西城さんの顔を見ると記憶が甦り”秀樹”と名前を呼んでいたのです。」
「そして、あの”秀樹、結婚しないのか?”これは魂から出た言葉です。西城さんが結婚した時、父親は”ありえない”というほど驚いていました」
子を持って知る
ここで江原がこんな質問をします。
「子供が芸能界へ入りたいと言ったらどうしますか?」
この事に西城がこう答えます。
「普通でいて欲しいです。でも、子供たちは芸能界が好きなようなので。変な応援はしませんが”自分で頑張ってみなさい”と言うかもしれません。なんか、父親と似ているのでちょっと苦しいです」
これに江原がこう返します
「父親と同じ気持ちを学ばなくてはなりません。子を持ってはじめて知る親の恩です」
再入院
2011年12月20日、再度、脳梗塞が西城秀樹を襲った。右半身麻痺と微細な言語障害のため2週間ほど入院をする。その後はリハビリに専念し歩行状態も回復方向に進んでいく。
逝去
2018年4月25日、自宅で家族で楽しんでいる最中に突然倒れ、緊急搬送され入院。懸命なる治療が行われるも、5月16日23時53分、急性心不全により横浜市内の病院にて死去。
ヒデキからは元気をもらい。そして、楽しかった。本当に楽しかった。
みんながみんな。楽しかった。
あの学園祭のあのステージを飾った曲。
いつも側にはヒデキの曲。これが最高だった。
本当にありがとう。
合掌
次は「向井亜紀のオーラ診断」