中島啓江の守護霊と現在をオーラ診断 不思議な体験 自動車事故

中島啓江のオーラ診断

私が子供の頃からいつも無邪気に振る舞っていました。そんなちょっとした油断が私の心の隙間を通り抜けた瞬間でした。この小さな体が宙を舞っていたのです。いったい何が起きたの。

どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。

プロフィール
生年月日 1957年11月15日
出身地 鹿児島県肝属郡南大隅町佐多町
本 名 中島啓江(なかじまけいこ)
身 長 165センチ
体 重 180キロ
血液型 A型
学 歴 昭和音楽短期大学卒

スピリチュアルチェック

〇 小さい頃、なりたかった職業は何ですか?
「花屋さんです」

〇 好きな色を教えてください。
「黄色です」

〇 一番好きな言葉は何ですか?
「ありがとう」

〇 不思議な体験を教えてください。
「幼稚園の頃、車にはねられ、地面に叩きつけられる大変な事故に遭ったのですが無傷でした」

〇 一番大切な曲は何ですか?
「アメイジング・グレイス、母が大好きでした」

〇 一つだけ願いが願うなら何を願いますか?
「もう一度、お母さんと一緒に暮らしたいです。どうか生き返って欲しい」

オーラの色
紫色(情愛が深く洞察力に優れたエネルギーを持ち、広い視野で物事を捉えることができますので、芸術面にも優れています。人を引き付ける魅力を持つ一方で、個性を追い求めてしまうために冷静になれないような一面も兼ね備えています。)

観音様に象徴されている色になります。

なりたかった職業
中島がこの職業の事についてこう話し出します。

「小さい頃は花壇に咲いている花、道端に咲いている花、家の花瓶に差してある花。花屋さんの花。すべての花が大好きでした。そして、花をお客さんに渡した時の、あの笑顔も大好きでしたので、将来はお花屋さんになりたいと思っていましたね」

「そして、小学校の時のことです。テレビ番組の『おかあさんといっしょ』に出演している歌のおねさん、真里ヨシコさんが童謡を歌いに学校に来てくれたのです。」

「そのとき着ていたドレスがとっても素敵で、見た瞬間に憧れを抱いていました。当校の児童代表がお礼の花束を差し上げましたら真里がこう言います。」
『ありがとう』

「今でも忘れません。この言葉がとっても印象的でした。」

「私は、花の中で好きな花はタンポポや菜の花で黄色い花も色も大好きです。この色は気持ちを朗らかにさせてくれます」

不思議な体験
中島がこのことについてこう言いだします。

「私が幼稚園の頃でした。乗用車にはねられて体が宙に飛ばされてしまいました。この時、誰かが大きな手で抱きとめてくれたような、そんな感じを覚えています。」

「この時の記憶は『おじちゃん。ありがとう』と言ったことです。周りの大人方だと思っていましたが、この時は、誰もいなかったと後で言われました。本当に不思議です」

ここで江原がこんな事を言います。
「実際の霊です。中島さんの今、後ろにいるお母さんが言っておりますが、お母さんの父方のおじいさんが助けてくれたようです。絶対に死んではいけない人だからです」

必要な勉強
つづけて美輪がこう言います。
「中島さんは、今まで辛くて悲しいこともありました。それは、すべて必要な勉強なのです。悪いことが無かったら、良いことに巡り会えません。その想いは、声の波動になって伝わるのです」

ここで中島がこう言います。
「私は絶対に悪いことはしません。誰かのお役に立ちたいという気持ちがいっぱいあります」

そして、美輪がこんな話をしだします。

「漫画家の水木しげるさんと対談した時のことです。水木さんがこのような事をおしゃっておりました。」
『70歳になっても人間は成長するし色々なものが見えてくるようにもなります。歌の解釈や、世の中のことがもの凄く分かりやすくなっていき自分の可能性が無限にある事に気がつきます。人間は必ず進化していきます』

一つの願い
中島がこのことについてこう話し出します。

「私が20年ぶりに母と一緒に暮らせるようになって暮らしたのが2-3年でした。この期間、もっと色んなところに連れて行きたかったです。」

「9年前に亡くなってしまいました。病室では母も私も大好きな『アメージンググレース』を歌って差し上げていました。しかし最後まで歌い切る事はできませんでした。」

「コンサートでも、いつも歌いつづけています。この歌はずっと歌いつつづけていかなければならない歌だと思っています。母を亡くした自分の悲しみよりも、聴いてくれるみんなが元気になってくれればいいなと思い歌っています。これは私のお役目ですね」

子守唄
ここで美輪がこのような事を話し出します。

「あなたのお母さんはいつも中島さんを守り続けています。姿が見えないだけで、いつも側についています。コンサートの時も同様に歌を聴いています。」

「今、お母さんが大好きだった紫色の花(テッセン)を持ちながら子守唄『ゆりかごの唄』を歌っています。中島さんが歌手になろうと思ったのはお母さんが歌ったこの歌があったからです。」

「今の母親は子守唄を知りません。なので子供に歌ってあげる事ができず母親の愛の波動が伝わらないのです。情操教育で良い精神的な思いを植え付けていません。」

「だから、中学からぐれてしまうのです。子供がぐれた時、子守唄を歌ってあげると無垢で純情だった頃の気持ちに戻る事ができます」

つづけて江原が母親からのメッセージをこう伝えます。

「一番良い時にこの世を去りました。数年でも一緒に過ごせましたから。もっと一杯してあげたいと思いましたが、この思いはもうありません。何故なら、啓江を精一杯の愛情を込めて育てましたから。」

一番好きな言葉
この事について中島がこう話し出します。

「私が小学校の時です。私をいつも意地悪する男子生徒がいました。この事を母親に言いましたらこう言ったのです。」
『その子に”ありがとう”って言ってご覧、絶対に変わるから』

「そして、転校する時の事です。私はその子にこう母に言われたとおりこう言います。
『ありがとう』

「すると、その子が泣きながらこう言うのです。」
『ごめんね』

「本当に魔法のような大好きな言葉です」

恩師 砂原道子
ここで、江原がこんな事を言います。
「中島さん。そこに砂原美智子(1923~1987)先生がおりますよ」

この先生は昭和音楽大学で教壇に立ち中島啓江や森公美子らに音楽の指導をしていました。オペラへの道を開いた人でもあるのです。教育姿勢はもの凄く厳しく去っていく生徒も沢山いたようです。中島はそんな先生だからこそ、最後の最後まで付いて行きます。

中島が30歳の1987年、砂原先生は他界。その後も中島はいつも恩師がそこにいるかのように話しかけていました。

つづけて江原がこう言います。
「砂原先生は、まったく寂しい思いはありませんでしたよ」

守護霊
中島さんの守護霊の中心にいるのはお坊さんで大玉の数珠を首からぶら下げています。

もう一人の守護霊は鎌倉時代辺りのかぐや姫のような着物を身に付けた女性になります。補助霊で付いているのが砂原先生とお母さんです。

そして、こんな事を江原が言い出します。

「中島さんが大学生の頃、砂原先生に北原白秋の作品『からたちの花』の詞にどうして山田耕筰がこのようなこの曲をつけたのかを先生に質問をしました。」

「すごく綺麗な詞と曲でしたが歌い手にとってはとっても難しかったため、この二人の関係を知りたかったのです。この事を砂原先生は山田耕筰先生のところに出向いて色々と質問しに行った事があります。」

「先生としてもちゃんと確かめないと嫌な性格を持っていました」

成仏の波動
中島もお母さんも衣装ケースに衣装を整え整理するのが習慣となっていました。布切れ1枚でもいつも綺麗に保管しています。

この事に江原がお母さんのメッセージをこう伝えます。
「少し処分しなさい。もっと身軽になった方がいいですよ。それに、墓で泣かないこと」

死者を想うことは、死者にとってありがたいことなのですが、この悲しみの波動が死者に伝わってしまうと、成仏できなくなってしまうのです。

成仏させてあげるには「私には心配いりません。元気で頑張っています。幸せです。楽しいです」等の良い波動を送ってあげることです。

そうすると、成仏できます。

著書
1992年12月「じゃあね」
内容
「ありがとう。お母さん。私を産んでくれて。いつも、どんな時でも遠くに離れていても通じ合える一卵性双生児親子。いつも別れ際はとっても明るく挨拶してくれる「じゃあね」世界でたった一人のお母さん。著者が最愛の母を失い。そして語る。

2008年2月「答えは、YES!―ビッグ・ママからのメッセージ」
内容
「”いじめの傷”それは忘れもしない。語ることもできなかった父親からの暴力。それは40年以上もたっても思い出すことがある。どうしても忘れられない。私たち子供も大人も生きるための”力”をどのようにして取り戻したらいいんだろう。ビッグ・ママが熱い思いを込めて語りに語る。答えは、YES!」

最期
2014年11月23日、午前10時35分、呼吸不全のため都内の病院で他界。57歳没。
合掌

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