島田洋七のオーラ診断
がばいばあちゃんと一緒に暮らす生活がはじまっていきます。ここからでした。ばあちゃんの習慣が私の中に取り入れられていったのが。そんな時です。一人の女性との出会いがあるのですが、財布の中は空っぽ。そんな時でした。ばあちゃんがこう言います。
どうぞ、このつづきをごゆっくりとご覧くださいませ。
プロフィール
生年月日 1950年2月10日
出生地 広島県広島市白島
本 名 徳永昭広
身 長 164センチ
学 歴 広島工業大学土木工学科中退
事務所 シマダオフィス・オスカープロ
スピリチュアルチェック
○ 小さい頃なりたかった職業は何ですか?
「野球選手です」
○ 好きな言葉を教えてください。
「こつこつやってもな、と思う前にこつこつやれ」
○ よく見る夢を教えてください。
「かあちゃんです」
○ 人生の転機を教えてください。
「駆け落ちするとき、ばあちゃんに「東へ行け」と言われたことです」
○ 将来の夢を教えてください。
「ばあちゃんとかあちゃんにもう一度会ってみたい」
よく見る夢「母ちゃん」
島田がこの夢についてこう話し出します。
「私の夢の中に時々母ちゃんが出ることがありました。この夢がしょっちゅう出るようになった時期ですが。それは小学校から中学校にかけての頃になります。」
「その内容というのは、一緒に食事しているところだったり、一緒に映画を観ているところだったり、しっかりと声は聞こえるのですが、姿を確認する事はどうしてもできません。何度もそうです」
それもそうです。島田は小学低学年の頃から高校の入学までの間、佐賀のがばいばあちゃんに育ててもらっていたからです。
母とばあちゃんの言葉
つづけて島田がこう話だします。
「母はいつもこんな事を言っていたのを覚えています。」
『優しい言葉の中にも厳しさを見つけなさい。厳しい言葉の中にも優しさを見つけなさい』
「そして、がばいばあちゃんはこんな事を言っていました。」
『人に優しくするときは、人に気付かれないようにしてさしあげなさい』
この二人の言葉は印象に残っています。
さらに、このような事も言っていました。
『暗い話は夜するな、昼間ならたいしたことがない。』
まさしく、昔の人の人生哲学です。
子供の逃げ場所
ここで美輪がこのような事を話し出します。
「最近は夫婦でも役割分担が無くなりました。夫婦で子供を叱っています。今までは、叱り役と受け止め役があったのです。大家族なら親に怒られても、おじいちゃんやおばあちゃんという逃げ場所がありました。子供には逃げ場が必要なのです。日本が核家族になってしまったのは失敗でした」
生活の知恵
この事に島田がこうつづけます。
「我が家にはお金がありませんでした。だからでしょう、生活の知恵や素晴らしい言葉が出てきたと思います。お金があれば生活の知恵は必要ありません。それに、おじいちゃんが亡くなっていなかったら、がばいばあちゃんではなく、普通のばあちゃんだったと思います」
妻との出会い
ここで島田がこの事についてこう話し出します。
「私が、広島工業大学を中退しまして、市内の八百屋に1年半住み込みで働いていました。その後、19歳の時に一度、佐賀に戻ってきた時にデパートで働いていた現在の妻と知り合うことができました。この時は、何も仕事をしていませんでしたので、周りから交際を反対されていました。」
東へ行け
「そこで、がばいばあちゃんにこのことを相談したところ、こんな助言をくれました。」
『人生は1回しかない、思ったようにやりなさい。学歴が無いなら東へ行けばいい。日当はここより倍違う』
「そして、二人は駆け落ち状態で東京へと出て行きました。島田のその目的は歌手を目指す事と遊ぶことです。その後、二人のお金も使い果て、先輩に誘われるまま大阪にいきました。その先輩の嫁が、なんば花月演芸場に行ってみたらと言ってきましたので、足を運ぶことに。」
漫才との出会い
「そこで初めて漫才を見たのです。そして、驚いたのは、中田カウスがポルシェに乗って帰るその姿です。あのたった15分間の舞台。これでポルシェ。これだけで大金が稼げてしまう。即決で漫才師を目指し。そして、島田洋之助の弟子になりました。」
「島田は1972年、島田洋一の名をもらい初代B&Bを結成し漫才師としてデビューします。ちょうど世間は漫才ブームでした。島田も稼ぎに稼ぎ、月収が8000万円を超える事もありました。そして、がばいばあちゃんにお世話になったお礼にとお金を持参した時のことでした」
「ばあちゃんからこんな一喝がでます」
『お金は持ってくるもんじゃない!』
さらにこうつづけます。
谷と頂上
「時は進み。漫才ブームは終わりを告げます。島田も何もやる事もなく毎日を過ごしていました。そんな時です。がばいばあちゃんからこんな事を言われます。
『5年間遊べ!谷も自分から降りていけ。そしてもう一度、山に挑戦してみろ。山への登山は厳しく辛く、頂上に達したら感動し記念写真を撮り下山する。そんな場所。長くいるところではない。』
縁の下の力
「島田は7年間、仕事の事を考えることなくとにかく遊びました。」
「そしてこう言います。」
『自分を見つめ直したお陰で、自分というものを見失わずに済みました。これで普通が分かりました。』
この7年間、お笑い界の後輩芸人らは大活躍していまいたが、がばいばあちゃんの教え通り「世間に見栄張るな。羨ましく思うな」
これを実行していたのです。
ここで江原がこのような事を言います。
「嫁さんも素晴らしかった。人は一度、贅沢を覚えたら普通、中々ここから逃れることができません。でも、嫁はそうではありませんでした。これを、がばいばあちゃんが、この嫁の事を見事に見抜いていたのです。」
「だから”二人で東へ行け”と言ったのです。この嫁に島田さんは助けられているのです」
お坊さん
ここで美輪がこうつづけます。
「お寺が気になります」
これに島田がこう返します。
「毎週、日曜日にはお寺へお参りをしていました。がばいばあちゃんも仏様とのつながりを大事にしていました」
これに江原がこうつづけます。
「この事が大きな支えとなりお守りしているのです。島田さんの成功はここにあります。それにお坊さんも見えます。亡くなっていますが、一度、会っている方です。この方が稼いだお金を恨みで使っているため、心の垢が付いています。とおっしゃっています。」
かまど
この事に島田はこのような事を言います。
「人気者になりお金を稼いでいました。でも、病気にはなるし何も変わらないし、食事も満足に食べていけない状況で過ごしていました」
ここで美輪がこう言います。
「荒神様(各家庭を守護するというかまどの神)かまどを思い出すようにしなさい」
島田は地元、佐賀に家を新築した際、がばいばあちゃんと同じように、かまどでご飯を炊いて生活してみようと思い設けたのですが、この事をすっかり忘れていました。
親子の修復
ここで江原がこう言い出します。
「あなたの亡き母親が晴れ晴れとした気持ちになっていません。」
これに島田がこう言います。
「実はまだ、母親の死を認めたくありませんので、墓前では一度も拝んでいません」
これに江原がこう返します。
「母親は息子から受け入れてもらっていない。これは原罪意識です。」
母親は自身で息子を育てる事ができませんでした。島田は母親がもの凄く恋しい思いがあったのですが、母親はそれ以上だったのです。母親は亡くなってからいつも、島田の側に今日まで憑依していました。いつも一緒でした。
この番組に招かれたのは、母親と島田の関係を修復するためなのです。
著書
『「人生に悔いなし」を実現する63章 人生に夢と希望の花が咲く!』2012年9月発売。
「毎日楽しくてしょうがなか! がばいばあちゃんが教えてくれたこと」2015年1月16日発売。
ドラマ
2018年4月22日「ブラックペアン」の小山兼人 役で出演。
次は「勝俣州和のオーラ診断」